悪意と憎悪










「やめてったら!!!!」



 椅子を倒し、机を揺らし、相手を押しのけ逃げるようには教室から飛び出した。嗚呼、気持ち悪い。ついほんの数十秒前まで談笑していたのは、レイリー・エレラというレイブンクローの監督生だった。寮は違うけれど、授業で一緒になれば会話を交わす所謂友人、もしくは知人という括りに分けられているその他大勢の中の一人であった。彼はとても優秀な人で人望も厚く、またとても理知的で聡明、知識だけでなく文武両道の才を持った人間で、生徒や学校の教授からの信頼も厚く、またそれなりに容姿も整っているという非の打ち所のない人間だった。気高きスリザリン生のに言わせれば、トム・リドルには遠く及ばないのだけれど。だが今はトムのことなど関係ない。息を荒げながらもは廊下を全力疾走する。髪は乱れじっとり汗の滲んだ顔は、薄く塗ったファンデーションを落としてしまっているだろうか。走り続ける廊下の途中でミセスノリスとかち合った。ともすればややあってフィルチが追いかけてくるだろうが、そんなことも念頭になくは走り、深く深い地下にある寮へとひたすら走り続けた。嗚呼、気持ち悪いのよ、本当に。


 ガタガタゴン、ガン、ダダッ、ゴ。まるで転がり落ちるような壮絶な音を立て、は寮へ入った。静かな雰囲気を常に保っているスリザリンでは、騒々しすぎるくらいけたたましい音だった。入ってすぐの談話室で寛いでいた者達は皆、目をまん丸にしてに視線をよこしていた。そしてその視線は、いささか避難的でもある。
「どうしたの、
 欺瞞に満ちた笑みと言葉でひとりの女がに近づいた。家柄的にはとそう引けは取らない女だったが、父親の仕事での権力の格差が、見事二人を縦社会の上と下に当て嵌めている。勿論言うまでもなく上なのはの方なのだけれど、プライドがそれを許さないのだろう。常に同等以上に立とうと意識しているのが見て取れる。彼女の名前はそう、エレノアという。エレノア、エレノア…全然関係ないことはわかってはいたが、その名前の響きがレイリーのファミリーネームに割りと似ている…と気がついたらもう駄目だった。はエレノアを睨みつけ「別に」と呟くとその場の体裁もなにもを捨て置きとっとと自室へ戻ることにした。なによ、あいつ。閉じるドアの後ろで遠く、聞こえた。気持ち悪いのよ、しょうがないでしょ。レイリーも、あんたも。

 自室へ入るとまず靴を脱ぎ捨てた。黒のエナメルの、シンプルだが曲線が美しいバックストラップのパンプス。ほんの数ヶ月前、あまりに可愛くて父親に強請って送ってもらった靴だった。お気に入りとなったそれは、二日とあけずに履いているが、大切に手入れしているのでまだおろしたてのようにキレイなままだった。今朝までは。だが、さっきなりふり構わず走ってしまったせいだろう、ヒールの部分に真新しい傷がいくつもついてしまっていた。傷を見てイしながらストッキングを脱ぎ、素足になってベルベットの絨毯の上に立って、そのまま洗面台へと向かう。コックを捻って勢いよく出した水に頭から突っ込んで、十数秒。ひたひたと頬や首を水が伝い落ちていく感覚を感じ始めた頃、洗面台から頭を上げ、それからは鏡の中の自分を見た。艶やかな栗毛はそんなに水を吸っておらず、ただ上から下へと滴り落ち、の服を濡らしていた。口端をあげて笑ってみるが、つぶらな目、赤い唇と頬、そんな男好きのする顔が今は醜悪に歪んでいささか凶器じみているようにも見えた。はは。は笑う、笑って髪をかきあげた。ぽたぽたと落ちる水は服だけでなく絨毯にも染みを作り、点々と後をつけた。

 コンコン、とドアをノックする音が響く。「なあに」とが声を返すと、「私よ、ねえ」と声が返ってきた。私って、誰よ。くすくす笑いながらはドアを開けてやろうと、洗面台から離れて行った。「ねえ、」「なによ」扉を開ければそこには数人の女生徒が立っており、そしてそれは所謂の取り巻きの女生徒達であった。
「やだ、どうしたの。それ」
「別に、頭を冷やしたくって」
 上から下へと落ちる雫は、否応なしに人の目に留まるのだろう。部屋に招きいれられながらも軽薄そうな金の髪を持つチェルーザは酔狂にしては域を脱しすぎだとでも言いたいような雰囲気だったが、口にせず黙ってを見ていた。
「混乱するようなことでもあったの?でもまさか、が取り乱すなんて考えられないわ」
「取り乱すといえば、さっきのエレノア!いい気味!!ねーえ、あの人あれでの親友だなんて言ってるけど、身の程をわきまえて欲しいわよねえ」
 くすくす笑いながら会話を続けたのはシャルロットにリアだ。部屋の中央近くにあるソファには腰掛け、三人を呼び寄せる。けらけらと悪意と嘲笑にまみれた会話がとりとめなく流れてる中、滑るようには言った。

「私、レイリーに告白されたわ」

 まるで自慢話のような言い出しだったが、しかしその場にいた誰もがそれをそうとは思わせない言葉と笑いを発し、部屋はそれで満ち満ちた。きゃはは、だから言ったでしょう、あいつ、絶対のことが好きだって。ばっかよねえ、に釣り合うと思ってんのかしら。それにしてもエレノアも可哀相、あの子、レイブンクローの監督生にご執心って、もっぱらの噂よ。あはは、きゃはは、あーはっはっ。

「ああ、でもも満更でもないんじゃない?好きって言われるの、気持ち良いよね」
「そうかしら、あんな人にそんなこと言われても、気持ち悪いだけよ」

 世界は悪意で満ち満ちた。そんな言葉を交わして今日を殺す。明日を引きずり出す。気持ちいいわけなんてない。本当に気持ち悪かった。

「キモチワルイ、だって。きっつぅーい」
「でもそうよね、いくら純血って言ってもマグルに肩入れしてる一族なんて、冗談じゃないわよね」


 けたたましく会話は続いた。誹謗、中傷、悪意と憎悪、絶え間ない嘲笑を耳にしながら、は濡れた髪をタオルで拭き取った。気持ち悪いだの、好きだの嫌いだの、くだらないことばかり言って独りではいられないものが。何を見て好意を寄せられるというんだろう。内面に隠したこんなにどす黒いものなんて知らないくせに。
 人の腹なんて、悪意と憎悪ばかりで渦巻いているばかりだろう。エレノアも、チェルーザも、シャルロットも、リアも、みんな、そうだ。







***







 人の口に戸は立てられないと昔の人は言ったらしい。そもそも好奇心旺盛な10代前半の少年少女を前にどうして噂を止められようか。人から人へ、手段を問わず手紙や口頭であっという間にそれは広がって隅から隅まで話は渡っていた。スリザリンから流れ出た、悪意、という形で。
 あの日からちょうど一週間が経っただろうか、取り乱した気持ちも落ち着き、今となっては普段通りの生活のリズムに戻ったように思える。多分、それが客観的に見た第三者の見解だろう。けれど当の本人であるは、あの翌日にはすっかり普段どおりに生活をしているのだから、噂話なんて当てにならない。多分、はじめに吹聴したのはあの日の部屋にやってきた取り巻きの女生徒たち。それに(レイリーに対しての)悪意の尾ひれをつけて学校中に言いまわったのはスリザリンの生徒だ。あることないこと吹聴したのだろう、努めて平常を装うとしているが、レイリーは居たたまれないようであるし、エレノアは強くを睨み付けてやまなかった。

(馬鹿な女)

 今すぐにでも引っぱたきたいのだろう、けれどそうしないのはの父を恐れてか。しかし引っぱたこうにも向こうに分の悪すぎる事態になるだけだ。筋違いの醜い嫉妬の末の応酬だなんて。でも、でもだ。レイリーのような男に好意を寄せられるよりよっぽど、嫉妬や憎悪の感情を向けられるほうが心地よかった。

(だからあんたがそんなふうに睨んで来ても、黙っててあげるわ)

 くすくすと、ともすれば笑い出しそうになる顔を抑え、は黒板に書かれた文字を羊皮紙に写し取っていた。授業中だというのに生徒達の落ち着きがないのは、今このこのクラスにとレイリーが揃って頭を並べているからだろう。
 ちっとも静まらない囁き声に先生はもう知らん顔をして授業を進めているし、ちくちく刺さるような声と視線にレイリーは居たたまれないようで、黒板の文字を写す羽根ペンが震えていた。それに加えてエレノアがいることで生徒達の好奇心は残酷なくらいに拍車をかけていた。レイブンクローの生徒は知らない方が多いだろうが、おおよそのスリザリンの生徒にとってエレノアがレイリーを好きだということは周知の事実だった。エレノアに飛び火しなかったのは、彼女が曲がりなりにもスリザリンの生徒だったからだろう。

 とんでもない場所だわ。好奇心に満ち溢れただけなのに、人によっては悪意の場所でしかないだなんて。

 堪えきれずは下を向き、くつくつと小さく笑った。羊皮紙に黒板の字はすべて書き写していたから、下を向く必要なんてないのに。



、どうした?」
「あ、いいえ―――なんでもないわ、トム」
「そうか?」

 心配そうに覗き込んだ顔に、はかぶり振ってみせた。どうやら堪えるあまり、肩が震えていたらしい。安心したように彼は微笑んだが、それは本心ではないだろう。彼とはよく似ていた。お行儀のいい優等生を演じているところも、腹の奥に誰よりも黒く暗い悪意を飼っているところも。似ているから、よくわかるんだ、お互いに。けれど決して口にしないのはそこで仲間じみた共有意識なんて永遠に芽生えないだろうことを知っているから。

「今日は二人一組で薬を作るみたいだよ、さあ」
「ええ」

 大きいなべを囲って二人で一つの共有作業。お互いに口にしたのは他愛無く、腹で思っていることなど掠りもしないどうでもいいことばかりだった。だからこそ順調に作業ははかどり、他人を気にしてばかりの他のペアたちよりよっぽど早くに終わろうかという時だった。

「楽しそうだね」
「………なにが」

 コロ、とトムの掌から薬を詰めるビンの蓋が転がり落ちた。の方に向かってくるそれを、まるで自然に取りに行くように、近づいて、小さく、囁く。
「悪意と憎悪」
 ぞっと背筋を駆け巡ったのは言いようのないもの。悪寒、より気味が悪いものではなく、震撼よりもっと刺激のあるものだった。離れていくトムの顔は、を駆け巡った言いようのないものと似たようなもので構成された笑みだった。

「さあ、できたよ」
「…………」

 トムはもう今は穏やかに笑って瓶詰めした薬をへ向けて見せた。冷ややかな目ではトムを見たけれど、一向に崩れることのない顔に少し苛々とした。忠告だとでも言うのか、偉そうにして。ポーカーフェイスを装って、煮えくりわたる腹を抱えてイスに腰を下ろした。止まないお喋り、ちらちら人を伺う視線。こんなふうに集中が途切れているようじゃ、薬なんてうまく作れやしないだろうに。

「残った時間は自習でいいってさ」
「…………そう」

 斜め後ろでトムの声を聞きながら、居心地悪そうに薬を瓶に詰めるレイリーを見た。ほのかに光る蛍光ピンクの薬。居たたまれないながらに黙々と作業を続けた彼は、思ったよりも早く上手くできたらしい。けれどそんなこと、にとってはどうでもいいことだった。







2011/1/9 ナミコ