傍観と忘却 静かに眠るような気持ちでは長椅子に身を任せていた。こんなに穏やかに時間を過ごすのはひどく久しぶりに思えた。差し迫った婚儀のせいで、思えばここ数日は死に物狂いで忙しかった。しかしそれももう終わりだ。相手方との顔合わせやごく親しい親族や貴族達へのお披露目と、魔法省への通知など、公的なものが終わってしまえば後は容易く準備が整うのを待つのみだ。 は気怠げに視線のみ右から左へと走らせ、この、長く生まれ育った家とも別れるのかと思いながらどこかに潜んでいるだろうしもべ妖精に紅茶を持ってくるよう言いつけた。 にとってこの家と離れることは長年慣れ親しんだといっても特に心を動かされるものではなかった。それはああそう、としもべ妖精に言いつけておいた何かを了承するような、それくらいのものだった。 「お嬢様、お、お紅茶でございます」 しもべ妖精は指と言葉を震わせてトレイにのせた紅茶を差し出した。なみなみと注がれたカップの中身が揺れていた。もしも母上に見咎められたらただではすまなかろう。上品ではないと、端整な唇は忌々しげに引き結ばれきっと首が飛ぶ。けれどは気だるくそれはどうでもいいことだった。手を伸ばし、しもべが運んだ紅茶には口をつける。そういえばはこのしもべの名前を知らなかった。生まれてこのかた一度も気にしたことがなかった。けれど別にそれで何か困ったことが起きる訳でもない。 は紅茶を飲み干すと目を閉じた。ひどく眠い。 白くまどろむように意識が白濁と夢と現の境をさ迷っていたが、それは鳥の羽音とのこめかみをくすぐる上品な啄ばみによって阻まれた。 こんなに柔らかく傍によるのは、あの方の梟に違いないと、は重たく目をあけることをはばかるようなまぶたをゆっくりと押し上げた。 目の前に鷲色の梟がきょろきょろとこちらを伺い、そしてが梟を目に入れたことを知ると、ちょうどの手に当たる場所に手紙を落とし、長椅子の背もたれに静かに飛び移った。 「爪を立てないで頂戴、母上が嫌がるの」 は梟を見もしなかったがこの梟が他のどの梟よりも賢いことを知っていた。そしてどの梟より上品に育てられているかも。 は落とされた手紙を開け、目を走らせた。手紙の送り主は梟の持ち主、今度共に婚礼の儀を迎える相手方からの手紙であった。その内容は婚儀を前にしたいずれ伴侶になる者へ向けた労りのような内容だったが、しかし非の打ち所はなく完璧であった。はいまだその人と言葉を交わしたことがないが、かねがね噂は聞いていた。近年稀に見る優秀な方で、とても正しく誉れ高い血筋の方だと聞いた。それはこの手紙の文脈からもはかり取れる。 はしもべにペンとインクを持ってこさせ、ゆっくりと手紙の返信をカードにしたためた。 ありがたき心遣い、いたみいりますわ。 婚礼の日を待ち遠しく思います。 カードを受け取り、梟はまた羽を羽ばたかせ窓の外へ行った。あの梟の羽が一枚抜け、窓の外をふわりと横切った。 鷲色。 その色を見ると思い出すことがある。遠い昔―――、…それは、が最も嫌いな色だ。 目を瞑れば思い出す―――、未だ鮮やかに思い出すことのできる数少ない記憶のひとつだ。 はまだ若く―――、そう、年の頃は16、17。まだ幼く無知で無邪気、とても浅はかに生きていた少女の頃のことだった。 「いやあねぇ、またあいつらとやりあったの?」 クスクスと談話室中が冷笑と、そして少なからずの失笑に包まれる時間があった。 「スニベリー?」 はその中心に立って冷笑を彼に浴びせかけているものだった。そういう意味ではにとっても、あいつらにとっても、彼に対する仕打ちは似たようなものだった。 「黙れ、痴れ女」 「おお怖い」 口でそのようなことを言っても、はちっともそんなそぶりは見せなかった。その談話室では、もとより寮では、既にそこには入学する前からあらかじめ形成されてきた社会というものがあったからだ。血筋と地位と権力と、そして財力とが織り交ぜあいひとつになって魔法会の純粋たる血筋を受け継ぐものたちはあらかじめ順位をつけられていた。はその中でも高位に位置する家系であった。ともすれば、ブラック家ともつりあう血筋で、しかしながらまだその上には魔法会の上位位置に属するマルフォイ家というものがあった。しかしマルフォイ家の子息はとっくにここを卒業し、ブラック家の子息のひとりはこともあろうにこの寮の門をくぐれなかった。だからいわば今、この寮でははほぼ一等に近いちからを持っていることになる。彼女が冷笑すれば皆がそれをならい、彼女が口を閉ざせば誰もが同じように口を閉ざした。 「あんまり笑っちゃいけないわね」 はやめなさいよ、とたしなむ様に言ったくせにくすくす笑っていた。たしなむ気など毛頭ないくせにほんの差し障り程度、社交辞令のような気持ちで言葉にしたものだ。あまりにもひどい、と公正で誠実な者たちなら言うだろうか、酷いと。しかしスリザリンとグリフィンドールとはいえ、我が寮のあの男をいじくって楽しんでいるあのふたりのほうが、当のセブルススネイプより遥かに血筋はいいのだ。ともすれば見た目も、全体的に見た成績も。 「なにひとつ―――ナベをかき混ぜる以外は適わないンだから」 どっと談話室に笑いが咲く。その声を閉じた扉の向こうでスネイプは聞こえているのだろうか。唇を噛み締めているのだろうか。馬鹿な奴。 は初めて会ったときからスネイプが嫌いだった。じくじく痛む膿みを心に持っている。ネガティブで陰鬱で見ているだけで腹立たしかった。そして少しだけ押し沈めた自分の心と似ていて、苛々した。 「いけない、忘れてたわ」 ぴたり、と笑ました口を閉じ、はソファから立ち上がる。 「どうしたの?」 「先生に呼ばれていたんだわ、ホラ、なんだか引継ぎがどうのって」 ちらりと時計に目を走らせれば約束の時間はとうに過ぎていることに気付く。血筋と権力とで手に入れた監督生の座はには少しばかり重々しく、気だるいものだった。昔からすべてをしもべと召し使いにことづけているは命令することに慣れてはいても、なにかに従うことには慣れていなかった。 「ケヴィンは行ってる?」 「やあね、。ケヴィンはおばあさまがお亡くなり遊ばされて昨日一足先に休暇に入ったのよ。貴方、ケヴィンから直接聞いていたじゃない」 「ああ」 しまった、と思ってももう遅く、どうしようもない。 は監督生がまかなうおおよそほとんどすべての実務を、その相方でもあるケヴィンに任せきっていた。それが仇となったといえばそうかもしれない。あまりに責任から逃れていたは改めて初めて思い知る失態。 口には出さず心の中で舌打ちし、は「ちょっと行ってくるわ」と行って入り口に向かった。 後ろからついて行こうかという声が幾らか上がったが、それに首を振り歩幅を早めた。 「気持ちだけ頂くわ」 入り口の扉を潜り抜けると薄暗い廊下に出る。スリザリン寮は地下にあるせいで窓もなく、空飛ぶランプに灯った火が朝でも夜でも同じようにひっそりと廊下を照らしていた。 ひんやりした空気、その向こうでランプの火に照らされたの影が遠く長く廊下の奥に映し出されている。消灯時間間際のせいかそこはもう誰一人として姿が見えなかった。 もしも誰か教師に見咎められたらどうしようか。寮監に呼ばれたのだと、そう言おうか。はたまた……まあいい。の舌はいつどこでも滞りなく饒舌に嘘を紡ぐことができる。サラザールスリザリンがそうであったように、確かに狡猾な血を体内に宿している。それは確かなの誇りであった。サラザールの正統なる血を受け継いだ血族はごく少数に限られていたが、しかしながらそれらすべての者が真に狡猾であるわけではない。 卑怯と狡猾との違いのわからぬ痴れ者どもよりよっぽどは高潔に狡猾だ。 はたと気付くとは見知らぬ道を通っていた。廊下を揺らめくランプはいつの間にか蝋燭に、地下にはあるはずのない窓が夜空をうつしていた。 別棟に来てしまっていたか、と思う。慣れしたんだと思っていた場所でも、少し向きをかえれば別の顔を見せるようにいつどこにでも未知のものはひそんでいる。恐らくここは普段が近づかない場所、近づくことを必要としない場所。となれば可能性としてはスリザリン以外の他三寮のうちどれかの近くだと思える。 (スリザリンから一番近いのはハッフルパフ) しかしハッフルパフはスリザリンより少し上に位置する寮だ、窓から見える外はあまりにも遠く、高い。だから今の推測は違う…とは完全に言い切れない。夜は目にうつすすべてを昼間とは違うものに見せる。今、外にあるものがはっきりとそれだと見極める術をは知らない。なにしろ窓からなにかを見るということは、ホグワーツにいるときのは日常的な習慣がなかった。 そしてもうひとつ、この窓が映し出している景色は魔法が彩る幻なのかもしれない。 (どうやって帰ったらいいのかしらね) は足を止めてあたりを見回した。後ろは長く続く回廊、前はまた別の開けた場所に繋がるのか、どうなのか、行く手は曲がり角のようだった。 そのとき影が揺らめいて曲がり角ぎりぎりに大きな陰影を映し出した。教師か、それとも夜歩きをする生徒か、そんな生徒を見張る猫の姿か。 少なくともそれは人の形をしていたから猫ではない。はそっと近寄って曲がり角から忍んで様子を伺った。 (…だ、れ?) それは後姿でよく見えず、しかし黒い学校指定のローブを羽織っていたから生徒に間違いはなかった。 消灯時間をとうに過ぎたのに焦ることも急ぐこともなくゆっくりと徘徊する足取りはよく慣れていたように見える。 せめてどこの寮のものか分かれば帰り道の見当もつくと思い、は目を凝らしてそれを見つめた。見つめすぎて目が細くなる、と思ったらはその背中をつ、と押され曲がり角の向こうに重力のまま雪崩れた。 「きゃ、…!!」 続けざま叫びだしそうになった声をは慌てて止めるだけの時間はあった。けれど踏みとどまることはかなわない。は分厚い絨毯の上にやわらかな音をたてて転んだ。 「だれ?」 前を行く生徒が振り返ってこちらを見る。それはまだ甲高い子供らしさを残す男の子の声だった。しかし顔は見えない。は地に平伏すように転び、その屈辱に項垂れ耐えていたからだ。 「…君は…?」 声が近づいてくる、こちらに歩み寄る足音が絨毯に吸収され聞こえないけれど、その気配を感じる。 「…どうしたの、君達も」 そして男の子の優しく柔らかな声に明らかな驚きと訝りが加わり潜められた言葉。はそれを反芻し、そして瞬時に理解し、閃光のごとく後ろを振り返った。 「……ポッター、ブラック…!!」 低く唸り、はを見下ろすふたりを交互に睨みあげた。 先ほど背中を押した手は、このふたりによってもたらされたものだった。思えば憎さは増し、腹立たしさと憤りはとめどなくふつふつとこみ上げた。 転ばされたの為に二人は手を差し伸べたがは腹立たしすぎてその二人の手を勢いと力を込めて振り払い、こちらへ歩んできた男の子に手を差し伸べさせそれから立ち上がった。 「貴方達の家では紳士は淑女を転ばせるものなのかしら?」 嫌味と棘と怒りをすべて孕ませは言葉を投げつけた。けれど彼らは軽く笑い流すだけでなにも言わない。 「貴方の曾お爺様も、お母様も皆、素晴らしい方だというのに」 しかしその言葉はシリウスブラックの心に酷くよく食い込んだ。ぴくりとこめかみが引きつり、笑っていたはずの口元は真一文字に引き結ばれている。 知らないはずがない、どんなに隠したとて家の中の不穏はするすると抜け出る水のようなものだから。 「愚かで卑怯な所業を繰り返すうちに忘れたのかしら。よく―――、私の寮の誰かに絡んでいるみたいよね」 すうっとブラックの、その瞳が暗く闇をとどめたような憎しみと怒りを溜め込んでいる。そういえばブラックはことほかに短気だと、聞いたことがある。 は唇に薄く笑みを乗せてその表情を伺った。 「卑怯と狡猾の違いを知っていて?勇気を抱くゴドリックの名を辱めるだけならまだしも、先々からの誉れ高きを挫いた貴方の名を知らない人など」いないわと続くはずの言葉は言葉にならなかった。極端に気の短いブラックの堪忍袋の緒というものはあっけなく軽い音を立てて簡単にまっぷたつになり、に向かった。 しかしそれを予測していたブラック以外の者は素早くその瞬間を逃さず身体を動かしていた。ポッターはブラックを取り押さえ、男の子はを庇うように後ろに隠した。 「―――ッッ!!ッ、 、ーーーッ!!」 我を失うように多分、ブラックは罵声を浴びせかけてるに違いない。けれども人目につくことをはばかっているブラックを取り押さえるポッターはそうしながらに必死にその口を塞いで声が漏れないようにしている。 は酷く心臓を驚き跳ね上がらせながらそれを見ていた。なんて野蛮なんだろうか。はこのシリウスブラックの母親や父親と会ったことがある。ひどく厳格で美しく、古としきたりを尊んだまさに狡猾の名に相応しい人だった。 そして同じ尊き血を持つに笑いかけたというのに。 信じられない。この男が、あのブラック家の長男だなんて。 睨みつけたブラックを侮蔑的に見、は息を潜めた。 「シリウス、落ち着いて」 を庇った男の子はゆっくりとブラックに近づき、たしなめる。 「ねえ、君は自分のしたことを忘れちゃいけない。君のやったことは彼女にとってひとぐ腹立たしいことだった。だから君にもそれと同じことを与えようとした。それだけなんだ」 男の子の言葉にブラックは叫ぶことを止めたとはいえ、いまだ低く唸っている。男の子はそれを無視し、さらに言葉を続ける。 「それに僕は、こんな時間にどうして君達がここにいるのかが気になるんだけど?」 「散歩だ」 間髪いれずに素っ気無く、それこそ吐き捨てるようにブラックに言った。 「散歩ね…。あのね、君達は一度僕が監督生だってことを確認すべきだと思うんだ」 三人のやり取りからがはじき出され、それを窺うだけの合間には監督生という言葉を聞いた。 監督生。このを庇った男の子は監督生だというのか。ブラックとポッターと友人らしい雰囲気の、この人は。 やがてこんこんと説き伏せられた後にブラックは鼻をならし、こちらを睨みつけたとはいえ何も言わずに背中を向けた。 「リーマス、」 ちらとポッターが振り向きざま名前を呼んだ。恐らく、男の子のファーストネームだ。 リーマスと呼ばれた男の子は口端をわずかにあげ、それからこくりと頷いた。 怒りと憤りに目の前のブラックしか目に入っていなかったはここで初めてその男の子の姿かたちを認識することになる。 長身のブラックには見下ろされていただけれど、この男の子とはさして変わりない背丈で、向こうのほうが申し訳程度にやや高いくらいであった。鷲色の髪は通常の男の子よりやや長めに伸びており、しかしこの年の子供にしては艶のない髪色をしていた。 振り返りこちらを見る目が優しそうに薄められた。 「君の寮まで送っていくよ」 はどんなに彼が急かそうとしてもゆっくりとした足取りは変えずにその後をついていった。彼は困ったな、というふうになんどか首を傾げたがそれを言葉にすることはなかった。ましてやを置いてゆくなんてことは決してしなかった。きっと、あの気の短いブラックなら怒りのまま怒鳴り散らしてさっさと行ってしまうに違いない。そもそも、送っていくなんて殊勝なこと言うかどうかもわからない。とにかくそうして儲けた時間の中、は彼の後ろ姿と鷲色の髪をしっかり観察し、そして考えた。 「ねえ、貴方監督生って言ってたわね」 「うん?…んん、そう、だよ?」 突然話しかけたに驚いたのか、彼は口ごもり、言葉を出しにくそうに縺れさせて一度を振り返り、また視線を前に戻して歩む足を止めない。 「怒っていた?」 なにが、と振り返る彼の目に、はどううつっていただろうか。は俯き、廊下を歩く自分の足の同じような動きをひたすらに見つめ、そしてまた言葉を続けた。 「失望していた?それとも許していた?」 初めの、たちがひとつ学年を昇った日、学校へ向かう特急列車の中で始めて監督生たちは顔を見合わせる。形式的な引継ぎを行うためでもある。は彼を知らなかったし、覚えてもいなかったけれど、必ずしも相手もそうだと言うわけではない。少なくとも彼にとっては。彼はそこにがいたというのにもちゃんと気がついていた。 だから先ほどからが口にする、第三者がに抱いているであろう感情について、彼は答えることにした。 「何も仰っていなかったよ」 振り向いてはいなかったけれど、が口を引き結んでいることがなんとなく伝わった。 怒りを向けられるのは期待されているから。失望されるのは期待にかけられていたから。許すのは次の見込みに期待されているから。 なにも仰らないのはもう諦められているのか、そうなのか。 つ、と彼の手がの手に触れた。の体温よりほんの少し高いらしい熱が、指先から少しずつ伝わった。彼は手を引く。そしては手を引かれながら彼を見る。 「取り戻せると思う、君がどうにかしようと思えば」 知ったような口を聞くと、は思った。その言葉には重みがあったくせに突き放して落とすようなものだった。少なくともにはそう感じた。 「………、」 口を開く、けれどの口はどのような言葉を発していいのかわからなかった。罵声、罵詈、悪口雑言、それに棘をくるませて投げつけてやりたかった、そうしてたかぶる気持ちを押さえつけたかった。けれど知っている、そんなことをしても何の意味にもならないこと。知っているからこそ、どんな言葉も意味を成さないと、喉元でとどまり吐き出されぬままに飲み込まざるを得ない。 「着いたよ」 ははたと顔を上げる。さっき自ら飛び出たスリザリン寮の入り口だ。 ぐにゃりと歪んで笑ましては彼を見た。眉を顰めざるを得なかった。送ってもらったことに対する感謝の礼を、言うべきか言わざるべきか迷っている。 「貴方はひょっとしたら、誰よりもホグワーツの道に詳しいんじゃなくって?」 それがにとっての精一杯だった。 彼は目を細めて小さく微笑む。手がゆっくりとに伸びた。頭、頬、首、そして肩へと撫でるように下りてゆく手は、それでもぎりぎりのところでに触れてはいなかった。という器から零れ出、溢れる魂の形をなぞるような、はたまた不可侵の聖域に触れられぬともつくような。 「おやすみなさい」 触れそうで触れぬ手が動きを止める。の目をまっすぐ見据えたまま離れない。 「…おやすみ」 彼の唇は震え、しかししっかりと言葉を成してぎこちないとはいえ笑ましてさえくれた。 そしてそのまま、は後ろを向きスリザリンの入り口を抜ける。それでおしまいのはずだった。振り向こうと振りかぶるに、彼は心奪われるようにその頬に触れた。唇でもって。 互いの瞳と瞳がぶつかった。動揺の色と、驚愕の色、互いにそれを確認して、それでもなおは変わらぬまま後ろを向き、入り口の扉をくぐった。 重々しい扉が軋む音が響き、それから扉はぴたりと閉じた。 隔てた扉は重く、二度と開かぬように思えた。 それからは鷲色の髪の男の子を忘れられない。やがてそれがリーマスルーピンだと知り、同じ監督生であるにも関わらず言葉を交わすことは二度となかった。 遠巻きに彼を見つける、しかしは何もしない。向こうもこちらに気付いているのかもしれない、けれど彼も何もしない。偶然にセブルスと話しているとき、また偶然にポッターとブラックと鉢合わせた。後ろに彼はいたが一度だけ目が合っただけで後は何もなかった。 時は流れ季節は過ぎ、巡った末に大人になった。は自らの心を乱すすべてのものに苛立ちを感じていた。ぴんと張り詰めた糸を緩めることも切ることもしてはならないのだ。 そのまま、そのままに、と脆くあり続けるそれにひたりと蝋をたらし固めたのなんだったか。 鷲色は、心乱す色だった。彼を象徴する色だった。 「失われたものは、決して取り戻すことはできない」 そして新しくかき集めたものが失われたものの代わりに空の器を満たしていくのだ。 三日三晩の夜を経て明朝、朝日と共に婚儀のための鐘が鳴る。はその鐘に目を覚まし、純白に身を包まれ、母上が慈しんで育てた庭園の一等美しい花をブーケに手にし、父上の一等美しい毛並みの馬をあつらえた馬車に乗り、この家を出る。 がこれから愛していく夫は、艶やかで柔らかな、鷲色の髪を持つ人だ。その人は優しく、優秀でいて完璧。 失われたものを埋める、埋めるどころか溢れてさえいく。きっと。 こんこんと湧く泉のように溢れてゆくのか、ぽつと底辺にあいたところから零れてゆくのか。 鷲色は嫌いだ。 なにもできないままの心をふたつ、思い出させる。 は眉を顰めて薄く目を細めてそれから閉じた。今ひとたび眠りの淵へまどろむために。 思い出の話でした。 これを境にしばらく休ませて頂きます。 2005/6/19 アラナミ |