デイジーを胸にカナリアは






エイトは川べりに腰をかけ、ひざを抱えてその流れをじっと見詰めていた。
もんもんとした気持ちを抱えたまま眠ったのは間違いだった。気分はそれと同様曇りの空のようで晴れやかな空を見せようとしないじれったさを内包していた。

「なに見てるんだ」

降りかかる声をエイトは見上げてその人を確認した。
「川の流れを見ていた」それだけ、とそっけなくエイトは言葉を口にした。
けれどやっぱりきたという確信を、心は隠してないことをここに筆記しよう。まっていたのかもしれない。

父を知らない。
母を知らない。
けれどふたりは出会い、そして恋をした。だから自分がいるのだと、そう思うから。
国を捨ててまで欲しかったものが、母なのだろうか。父の墓は王家の墓にその名を連ねてこそいるが、その墓の中に父の骨は埋まっていないという。追いかけたのか、迎えにいったのか、どうなのか。

わからない。けれど、知りたいと、少しでもその気持ちを知ることに近づいたなら、もしかしたらわかるかもしれないと、そう思うのだ。

恋を知ったら、わかるのかな。

ちらと見上げたククールは、かわらずにこやかな笑顔でこちらをみていた。
「じゃあ今日はどこをまわろうか」などと笑うククールにエイトははにかむように小さく笑いながら、こみあげる頬の火照りを必死に隠そうとした。

別に、この人に恋をしようとか、そんなんじゃないのに。
(でも、手を繋ぐのは嫌じゃない。この間のキスも、嫌じゃなかった。)

エイトはそれをごまかすように川の向こう側を指差してククールの視線を自分から遠ざけさせた。
「クレープか、ちょっと待っててな」
やわらかく首を傾げながらエイトはきっとピンクになっている頬に手を押し当てた。やっぱりあついと思いながら、クレープを買いにゆくククールの背中をみる。
ここのあたりでは珍しい銀の髪、それだけではない、切れ長の端整な器量のよさにみんなが振り向いている、と初めて気がついたエイトは、感心するやらなぜだか恥ずかしいやらではらかんだ口元が歪むのを抑えることができない。

帰ってきたらなにを言えばいいだろうか、お帰りなさい、ご苦労様?ありがとう…そう、これだ。

ああ。

クレープを頼んでいたククールが振り返ったのと、目が合った。
いったいいつになったらこの火照りは収まるのか。
そういうわけじゃない、じゃないってば、違う違う、変。変なんだ、きっとそれだけなんだ。パンクしそうなくらい情報量が行き来する脳を必死に落ち着けようと努力する。これじゃあ知恵熱が出るかもしれないと思うくらいの悶絶を終えた頃、ククールはクレープをふたつ手にして戻ってきた。すれ違う女の子がククールを振り返り、その先にいるエイトに羨望の視線を寄越していた。

ありがとうと、笑おうと努力するエイトはまだぎこちなく口端をあげたままでいる。




こんな風にすごす日が毎日のように続いている。
気がつけばエイトは城を抜け出し、街をふらふら出歩く。初めのうちは微笑ましいとさえ思っていてくれた門兵たちも、今はもう少しずつ困り始めているだろう。
公的な行事がないときとか、叔父上が自分の部屋を伺いに来るころとか、さまざまな時間の合間を縫ってこそ、この間の、つまり一番初めに城を抜け出した日のお忍びが成り立っていたというのにこの頃のエイトはなにもかもを放り出して城の外へ出る。
大臣の目を盗んで外へ出かけるチャゴスとなんらかわりないわがままを通している。

確か今日はトロデーンの使者がやってくると聞いていた。正式な書簡と耳にしたから本当は広間に正装で出なければならないはずだったと思う。(それでも私は今、ここにいる。この人の前で笑ってクレープを食べている)

「おいしくない?」
「え?」

難しい顔してたとククールは笑いかけた。
ぽつんと胸に灯るともしびのようなあたたかさをエイトは感じた。
そしてその感情や気持ちは、雰囲気となって肌から伝わっていくのを知っているだろうか。ふと見上げた、見ただけだった、でも、見つめ合っていた。
くちびるが、ふれていた。



それは一瞬の、桜の花が散るような儚い時間に思えた。

「今夜ここを発とうと思う」

そして唐突に。

「目的のものも手に入れたし、そろそろいい頃合だ」
エイトを見下ろすククールの表情は、逆光に遮られうかがうことはかなわなかった。
けれどククールはいつもと変わりなく笑っているのだろう、おそらく。
「もしも君がオレとすごした時間を少しでも名残惜しく感じてくれるなら、今夜部屋の窓を少しだけ開けておいてくれ」
会いに行くからと、ククールは笑ったんだろう。
エイトは俯いて考えていた。会いにくるだなんて、馬鹿みたいなことを軽々しく口にするこの男のことを。
ククールはエイトの、つまりはエイミのことをただの平民の娘としか知らないはずで、この広い街の民家の窓がどれだけあると知っているのか。その窓が、夜中でも開いている窓がどれほどあると思っているのか。そもそもエイトは王家の姫であって平民の娘ではない。城から見下ろす数多くの窓のどれも、エイトの部屋には通じない。
ただひとつ、厳重な警備の元にある城の一角の部屋の窓だけが、そこに繋がっているというのに。

「無理だ」

ククールに向けたその言葉は空を切り、響くまもなく消えた。
もうククールは目の前にはいなかった。
代わりに怒りに顔を引きつらせた大臣がそこにいて。

「なにが無理なものですか、姫っ!!王のお召しを忘れられたか、不謹慎にも程がありますぞ!!」

激しく叱咤する大臣を見上げ、エイトはぎこちなく笑った。
「…ごめんなさい…」
投げかけたはずの言葉はまっすぐ自分に帰ったきた。無理なのだと。
はたはたと涙が零れるのを抑えることができなかった。
胸をしめつける思い。

「そ、そんなに泣かれずとも…。反省しているのならいいのです。私も言い過ぎました……姫、王が心配しておられますぞ、さあ」

大臣に手を引かれ、エイトは城へと足を運ぶ。
もう会えないのだと思う。
夢幻のような数日だった。エイトはククールの前ではただの娘で、ただの女だった。
そしてこの瞬間からサザンビークの姫へと戻ってしまうのだ。生まれたままに与えられたなにもかもを背負い。

涙が渇く間もなく連れていかれた大広間では、叔父上とチャゴスがエイトを待っていた。
直接のお咎めはなかったものの、暫くの謹慎を与えられた。
けれどそれでも構わなかったのだ。ククールは今夜ここを発つというし、そうなればもうエイトは自ら外へ足を運ぶ理由もなくなる。
自嘲ぎみにエイトは塞ぎ、沈む夕焼けをただじっと見つめ続けていた。





そうして幾らかの時間が通り過ぎ、日が沈み、宵が部屋に闇をもたらした。
火の灯さぬ部屋で、それでもエイトは窓の外を眺めつづけた。

ふと、ふわりと火が灯る気配を感じてエイトは頭をあげた。闇はいつのまにか眠りをももたらしたらしい。見上げた正面には自分の影が揺らめいていた。
見かねた侍女か誰かが火をもってきたのだろうか。

「火はいらない、消して…」
振り返るそこにいる男に、エイトは言葉を失うのだ。
「最後の語らいもいらないと言うのか?」
銀の髪をオレンジの火に照らされ艶やかにも男は首をかしげた。まるで寂しがるように。

「どうしてここに?」
「なぜだろう」
男ははぐらかすように笑った。
「はじめっから知っていたの?」
「それはまあ、知らなかったといえば嘘になるけど」
「どうして?」
「どうしてって、…そうだね、たぶん君の言うどうしてには、オレのいろいろな行動に対しての問いかけだと思うけど、オレは一概にすべてまとめてその答えを君に話すことはできない。なぜってオレのした行動一つ一つがすべて微妙に違う意味合いで成されてきたからだ。そしてオレはそのひとつひとつの理由を君に話したいと思っている」
ひたりと頬に触れた男の掌はほのかに火照ったような熱さを感じ得た。
「君から聞きたいこともある」

「君の本当の名前を、君の口から」

言うなり男はエイトの唇を吸い、言葉を奪い取るように激しいくちづけをした。
舌が執拗にエイトの咥内で舌を追い、翻弄させた。息継ぎもままならない。
激しく心は傾いだ。なぜ、と思う。けれどその問いかけは唇から吸い込まれていく。生まれ来る疑問も、すべて次から次から吸い取られていく。そして思考もすべて取り上げようとでも言うのだろうか、頭を支えられ、腰を支えられ、抱きとめられてくらくらするほどそれは激しかった。その中でやっとのことエイトが自らの名前を口にしたとき、軽く触れた唇を合図に男はエイトを強く抱きしめ、口を開いた。

「オレはククール、昔は騎士団の一員だった」
「だった?……今は、違うの?」
「今はひとり、自適悠々の旅をしている」
「…夜は怪盗という仮面をかぶって?」
ククールの目ははたと見開き、それから押し殺したように笑った。
「カンの鋭いお姫さまだ」
「カマかけただけだよ」
上等だ、とまたククールは笑う。

「エイト」
ククールは初めてエイトの名前を呼んだ。
偽りの名ではない、本当の名前を。
「お前のことは知っていたんだ。昔ある方の付き添いで目通ったことがある。もっとも、お前は覚えちゃないだろうけど」
ククールは笑う、手を差し伸べてエイトに笑う。そのときからだと。
「エイトが欲しかった」

ククールはあんまり幸せそうに笑うものだから、エイトは差し伸べた手に手を伸ばしながら風に囁くように問うた。
「私を、盗むの?」
「望んでくれるなら」

受け身にものごとを言うくせに、それでもククールは最後の最後で受け身であることを放棄する。
エイトがその手に手をのせると知っていながら、それでも待ちきれずにエイトの手を取った。

「せっかちだね」
「もう何年も、待っていたからさ」
城に忍び込むほどの技量を、そして連れて逃げるほどの知識を、なにもかもを積み重ねてやっと、ここにたどり着いたのだろう。
胸をくすぐる心地よさを幸せと感じながらエイトははにかむように言葉をつむいだ。
「望まないはずがないのに」
微笑んだエイトを、ククールは優しく引き寄せる。優しく触れた唇はコットンキャンディのように柔らかく甘かった。

そしてその夜、サザンビークの城の一室で、ただひとつの灯火を残して現サザンビークの王の姪にしてただひとりの姫は姿を消した。






「もったいねーなぁ…」

それは本当に心底から惜しんだように、ククールはエイトの髪を梳いた。
透き通るように指を抜けていく髪は今や短くふぞろいに切られ、細いうなじをさらしていた。

「いいの、すっきりしたんだから。それともククールは髪の長い方が好き?」
「いいや、エイトはエイトだってちゃんとわかっているけどよ。ちょっとさ、」
長い髪の時のエイトも好きだったと、ククールは笑う。
城を出たエイトは身に着けるものもなにも質素に最低限のものを選び、この世界にとけこんだ。髪も切った。
だからもうエイトをサザンビークのエイトだと気がつく人も、そうそういないんじゃないのだろうか。

「ぐちぐち言わないで早く!世界樹の葉を届けるんでしょ?」
そうだった、とククールはエイトの手を取り素早く呪文を唱える。
浮き上がる感覚は初めて味わう不思議なものだった。まるで空を飛ぶように浮き上がり、またたくま空間を移動しイメージした場所へ飛ぶ。
目を閉じて開ける、その一瞬の間たどり着いた場所はエイトの知らぬ地、まだ見ぬ大地、そしてククールの故郷でもある。

「ここに来るといろいろなことを思い出す」
「……ん、」
繋がった掌が、少しだけ力をこめて握られたように気がした。
「ごめん」
痛かった?とククールは両手でエイトの手をさすり、それからいたずらに笑うことで気持ちを一新させ、あって欲しい人がいるんだと言った。
「ひとりはオレの恩人で、もうひとりはまあ、腹違いの兄貴ってやつなんだけどさ」
ここを追い出されたこと、惨めで、なんとなく後ろ暗くて、情けなくて正面から会いにいけなかった。今日は世界樹の葉という口実もあるし、なによりエイトがいるから、とククールは手を引き石橋を歩き始める。
こうしてククールは少しずつゆっくりとエイトに自分のことを話していく。行き場もなく、閉じ込めてきた今までのいろいろな言葉や思いを曝け出し、共有を求めるように。
きっと心というものはその人が持つ気持ちすべてのことを言うのだろう、いろいろ絡み合い、渇き、がんじがらめになった心をエイトは知っていた。それは少し前の自分の心そのものだったからだ。けれど今はそれらはするすると解け、水のように身体中を潤している。
ククールも、そうしてがんじがらめになった心をそっと曝け出しながら解いていっている。解くその手を、エイトに委ねながら。
繋いだ掌は、手袋があって体温もなにもかもそれごしに伝わるはずなのに、なぜだか掌が汗をかいているそれがリアルに伝わった。
緊張している。

「ねぇ、ちょっとまって」
エイトは自分の身ただひとつであの城を抜け出したけれど、たったひとつ父と母から受け継いだ思いだけは肌身離さず持ってきていた。
「これをあげる」
首からさげたチェーンの間をくぐってキラリと赤く光る美しき輝き。世界三大宝石に数えられるそれを指輪としてあしらった、サザンビーク王家の証。

「ちょ、おま、これ…!」
「それは私の父のものだったけど、でもそれは、一番大切な人に持っていてもらったほうがいいと思うの」
だって父もそうしていたのだから、とエイトは笑い、ククールの掌にそれをのせた。
「大切な人…」
じわりとククールの白い肌に赤がさし、それから慌ててポケットやらカバンやらを探り出した。
「オレも、エイトに指輪とか、なにか、やったほうがいいよな!つーか指輪交換!?」
慌てて手袋を取りその指におさまる古びた、けれど由緒あるように指輪にククールの指が伸びたとき、エイトはその背中をたたいて「バカだなあ」とあっけらかんに笑った。
「指輪なんて要らないよ。ずっと一緒にいてくれるなら」
ククールはぽかんと口をあけてエイトを見た。
「そうか」
ならばもうずっと、離れる気はないと、ククールは思い、その手に最愛の親しみを込めてくちづけた。
そしてふたりは二人の手でもってマイエラの扉を開き、足を踏み入れる。






アスカンタ大陸、マイエラ地方より。



長かった、本当に長かった。
思えば3月、どなただかは知りませんが拍手から頂いたコメント、「エイトは女の子だったらサザンビークのお姫になれるのでは(要約)」から始まったささやかな妄想小話のはずでした。なのにもーなんだか知らないけど2ヶ月も(休み休み)続いてきたのですね。すげぇ
まー休み休みのせいだったんですが、読み返したらずいぶんと矛盾があちこちにひそんでおりました。勿論、直しました。付け加えさえしました。
おかげさまで30キロバイトを越すという(私にとっては)恐ろしく長い小話…(?)になってしまいましたが、ながながーとお付き合い頂きありがとうございました!!

2005/5/19  ナミコ