07 手を差し伸べる








 朝目覚めたときからぼくは人肌のぬくもりに包まれている。後ろから抱きすくめられるようにして抱きしめられたぼくの身体は2本の腕に絡んでいて少しだけ苦しいんだけれど、今は朝冷えする気候の長く続く季節だからそのぬくもりが優しくてとても好きだ。名残惜しささえ感じるその腕からぼくが静かに抜け出すのは、ゆったりと眠るその顔をまだ見ていたいと思うからだ。だってぼくはいつも彼よりも先に眠り込んでしまうから、彼の寝顔を見れるのは朝だけということになる。でも、そうしてこっそりと腕の中から抜け出してしまうことをあまり快く思ってくれない君のために、ぼくは最近眠り込む前に先手を打って君に正面から抱きしめられるように抱きついて眠っているんだ。そうすればこっそりと腕の中から抜け出すこともなく、君は拗ねたような顔を見せることなく、お互いに充足した感情を持って「おはよう」と、告げられるだろう。

「おはよう」と。
 重たそうなまぶたを、今にも閉じてしまいそうになりながら彼はすんでのところで持ちこたえてぼくの顔を覗き込む。まだ眠いんだ、とか。あと5分、とか。口の中で転がした言葉は意味のない音となって耳に入るけれど、そのところどころで聞こえるおはようとぼくの名前だけはいつも聞き間違えなく入ってくる。朝の弱い君に対して微笑ましさを含めたクスクス笑いを送り、ぼくは君の名を呼ぶ。

「ククール」

 すると君は安心したように微笑み瞳を閉じて力強くぼくを抱きしめて首筋に顔を埋める。首筋にかかる吐息と前髪がくすぐったくって身を捩れば、それを追いかけて君は身体をくっつけて。朝冷えに冷えた冷たい肌はその心地よい熱さを受け入れてより一層の抱擁にかえる。
「今日はここ周辺でレベル上げをすることになってるよ」
「……ふーん」
 眠りから冷め切らぬくぐもった声で彼はぼくを抱きしめたまま仰向けに転がる。目を瞑ったままの彼は天井も見ていないし、胸の上に乗ったぼくも見えていないのだろうけれど、その腕と手はしっかりとぼくを捕まえて離れる気配を見せない。くっついたままの素肌をたどり、少しずつ這い登ってぼくは彼の顎の先に小さく触れるくちづけをおくった。
 それにはじかれように彼はパチンと目を開けしげしげとぼくを見た。ぼくはといえばその顎の、夜のうちに少し伸びた色素の薄い鬚を見ていた。こうして朝一番に他愛のなく戯れるように抱きしめられることもなければ、気付かなかった、ましてや知らなかったかもしれないであろうことだ。ぼくは胸に灯ったあたたかな灯火に目を細め、小さく微笑んだ。
「さあ、服を着て、身だしなみを整えて。ただでさえ君は時間がかかるんだから」
 するりと腕の中から抜け出してベッドの淵に腰をかける、けれど彼の腕はいまだへそのあたりからわき腹に渡り、ぬくもりを与え続ける。ともすれば陰茎に触れそうなくらい近い掌に焦りそうになるけれど、もしもそうなってしまったら彼の思う壺で、今日の予定はめちゃくちゃにずらされてしまうのだということはわかっていたから、ぼくは極力冷静に彼の掌に自分の掌を重ね、うやうやしくくちづけてから彼のもとに返した。そしてぼくは追いかけてくる彼の腕をかわし、立ち上がってそこかしこに散らばるぼくの服と彼の服を拾い上げて彼へと放り投げた。彼は幾分か不服そうにこちらを見ていたが、かわらず微笑みかけるぼくに小さく微笑み返し、皺のついてしまった服を身に付け出した。

「皺が……」
 彼はしまったというように嘆息し、ああとか、ううとか呻いて服についた皺を気にしはじめた。一晩とはいえ、脱いだままに放置していた服の皺はそう簡単には消えない。
「だからがっついちゃだめだって言っただろ」
 今度からはちゃんとたたんでからするか、終わったらたたもうか、などと提案してみせるけれどそれは彼の意にはそぐわないらしい。欲しいと思ったときに抱き、そしてそのまま寄り添って眠るのだと、彼は迂闊にも繊維に記憶させてしまった皺を指で伸ばしながら言った。
「じゃあたたんで、お風呂入って、そのまましちゃうんならいーんじゃない?」
 扉一枚向こうの洗面台から、ぼくは彼に向かって言った。まるで日常会話のように自然に飛び交う言葉だけれど、それをもしも自分達以外に聞かれてしまったら本当は困るのかもしれない。けれどこの朝のまどろみにうつつで曖昧な人たちの思考は多分そこまで追いつかない。こんな言葉を言っているぼくもその実幾分かまだ寝ぼけているのだから。
 いつまでも皺を気にする彼の身支度はそこから進行を見せなかった。それでもぼくはしょうがないと笑って許してしまい、鏡台に置かれた備え付けのブラシで彼の髪を梳き、黒いリボンでそれをひとつに束ねてやる。甘いなあと思う、それでもぼくはこうして皺伸ばしに躍起になる彼を見てつい「霧吹きとアイロンを借りてこようか」などと言ってしまうのだ。
「あー、もういいよ。そこまでしなくても」
 それでも小さく彼は舌打ちし、完全に気にしていないわけではないとでもいうように気にしながら長い白いブーツを履き、そしてマントを羽織る。極力皺の少なかったマントは下の衣服の皺を見事に隠してしまった。鏡の前で彼は満足そうに笑う。「よし」と。
 ぼくは手にしたままのブラシで髪を梳かそうかどうか迷いながらも、結局それは元の鏡台へ戻し掌で手早く髪を撫で付けてバンダナを頭に巻きつけた。彼と違って細い猫のような髪ではないぼくは、下手に梳かしてしまったらそれこそ見る目もあてられなくなってしまうとわかっていたから。堅く尖った髪の先は重力にままならず横跳ねしてしまっているけれど、バンダナで包んだ端から零れているそれだけに気をつければいいだけだと、ぼくは前髪を少量つまんでまっすぐ伸ばしてやった。心の中でぼくは「よし」と呟いた。

「ほら、寛いでないで顔洗って、歯を磨いて!」
「お前を待ってたんだよ」
 ぼくは振り向いて彼の顔を見た。思わせぶりな自信に満ち溢れて尊大な顔、その傲慢さは嫌いではなかった。なぜだかそこかしこから愛を感じるからだ。「残念」とぼくは呟く。当ての外れた彼は瞬きして訝しげにぼくを見る。ぼくはもういちど「残念」と言い、今度は笑った。
「君が服の皺を気にしている間に、ぼくは洗顔も歯磨きも両方済ませてしまったよ」
 あからさまに不服の顔を作った彼は「なんだ」と唇を尖らせ早々に洗面台に向かった。ぼくを待ってどうしようと言うのだろうか、狭い洗面室に男ふたりが詰め込んで、邪魔にしかならないだろうに。
 でも、とぼくはしばし逡巡して巡ってきた思考に口端を微かにあげて見せる。たとえ狭いところに詰め込んでいったとしても、そこにいる相手が好きな人だったのなら、それは幸せなのかもしれない。朝の忙しい時間でさえ、そんな一時を共有できるというのだから。
 ぼくはそっと洗面室を覗き込む。気だるげに本当に「ああ、疲れた」と、今すぐにでも口に出しそうな顔で彼は歯を磨いている。彼は歯を磨いているとき、本当に疲れたという顔をする。緊張もなにもかもを取り払った一番なんでもない素顔なのかもしれないねと、前に言ったことがあったけれど彼は「そうか?」とうやむやに笑い肩をすくめただけだった。それは無意識の境地なのかもしれないと、そう思いながらぼくは狭い洗面室に潜り込む。ぴたりとくっついた右半身、彼は瞬きをしながら小気味よい音をたてながら歯を磨く。蛇口を捻る。水を出す。歯ブラシを洗う。水を救い口に含む。うがいをする。含んだ水を吐き出す。もう一度うがいをする。口元を手の甲で拭いながら彼は「なんだよ」と、嬉しそうな声を隠しながらそれでもこらえきれない喜びを零れ落ちさせてぼくを見た。「別に」とぼくは身体をくっつけたままにする。「ふうん」と彼は呟き閉じられぬままの蛇口から流れ落ち続ける水を掌ですくい、顔を洗った。銀糸に跳ねる水玉、きれいだなとぼく見惚れていることに、気付かれているだろうか。
「はい、タオル」
「んー、サンキュ」
 手渡したタオルで大雑把に水滴を拭った彼はタオルをそのまま洗面台に放り、鏡越しにぼくの目を覗き込んでから隣にいるぼくに視線を移し、しっとりとしたくちづけをした。水の味とスーッとする歯磨き粉のミントの味。冷ややかに熱く咥内を這いずり淫らな水温と共にゆっくり離れていった。ぐい、と身体を押し洗面室かの外へ出そうとする腕に足がもつれる。
「おら、早く出ろよ。ったく誘ってんのかよ…」
 ぶつぶつ上から降る文句に愕然と赤くなってぼくはたじろいだ。そんなつもりはなかった、それは確かなことだけれど、よくよく考えたらああいう行動は確かに彼のいう誘っていたの部類に入っている。ああしまった、どうしよう、恥ずかしい、誘っていたなんてと、毎夜毎夜寄り添い眠り、時に情欲のままに性交したりペッティングしたりと繰り返しているのに、いまだ自ら求めることには恥じらいを覚えている。ぼくは赤くなる頬を隠すように彼から背を向けテーブルの上に置き、昨夜のうちに用意していたカバンと剣を手にそれらを身に着ける。

「エイト」

 彼が呼んだ。ぼくは振り返る。赤くなった頬を必死に通常の肌色に戻そうと躍起になりながら、それでも少しだけ熱くなったままの頬を叱咤しながら平常を装って。
「行こうか」
 自信に満ち溢れた顔で彼は笑い、剣を携え部屋の入り口の手前でぼくをまっていた。手を差し伸べながら。
 ぼくは微かに微笑み伸ばされた手に向かい歩み、そして共にこの部屋のドアくぐっていく。仲間達の待つ階下へと。







なんでもない日常の中にクク主は潜んでいるよ、とかなんとか。

2005/7/15   ナミコ