キッズウォー






「ただいまーっ、と…」
 カギを開けて入り込んだ玄関に安っぽいドアの閉まる音が響いた。狭い玄関に小さなワンルームマンション、日当たりは決していいとは言えないけれど、代わりに男一人暮らすくらいには充分な広さを持っていた。ここに住んで何年だったか、結構長い気がする。いいや実際に長いんだ、高校卒業以来住みついたオレの城、こんなところすぐに出てってやるさ、なんてこと何度思ったかわかりゃしねぇ、なのに住み心地よくなっちまったここを離れることも出来ず、就職した会社には電車で通ってる始末だ。面倒じゃねぇの、なんて同僚に苦笑されて近くに大学があるんだよ、なんて笑ってみせて。ああ、あんたモテそうだもんなあなんて羨望の眼差しに、ちげぇよ恋人がいんだよと返した。そりゃあ入学したての初めの頃は好き勝手やってたって、否定はしねぇよ。実際自分でもわかんねぇくらいの人間を、というかオンナを連れ込んだりしていたけれど、悠々自適の学生生活が終わっちまえば仕事だ飲み会だなんだのと忙しさにまみれてしまってそれはかなわなくなった、というよりもあれこれ摘み食いする気力も削られてないというか。

 …ただひとりを決めてしまってからは、まるでそいつに操を立てる少女みたいに堅実に真面目な性生活を送るようになったというか。あのプレイボーイのククールが、と学生時代のオレを知る奴らは口をそろえてその決まり文句を言ってくれた。そうさ、来るもの拒まず去るもの追わずの美丈夫が、誘いの声に見向きもせず夜遊びにも出掛けないなんてさ。いや、だけれどそれよりもなにより、

(…疲れてんだよなぁ)

 疲れをそのままあらわすみたいにいい加減に靴を脱いで、カバンはそのまま玄関に。家に仕事は持ち帰らないって決めてるんでね、仕事とプライベートを分けられなくなったら本当にお終いだ、なにもかもが嫌になっちまうだろ?たとえそうしなければ出世できないとか遅れを取るとか快くないことを言われたとしても、今は今って思ってるから別段構いやしねぇ。首に纏わりつくネクタイを緩めて一呼吸、ビールでも飲むか、それともとっておきのウィスキーを飲むか。どうするか決めかねて踏み込んだフローリングで嫌なもんを目にして元ある疲れがどっと増したように感じられたんだけれども。

「ーん、ぅあ?ぉ、かえりー」
「もうできあがってんのか?」
 着込んだスーツもそのままにフローリングに寝転んでる彼―――そう、彼だ。決して彼女ではない、Y染色体を持つ、正真正銘の男―――は、頬をすっかり染め上げてへべれけ状態、幸せそうにゆるんだ顔をめいっぱいにやけたまんまオレを見上げた。くしゃのくしゃのワイシャツとネクタイに、見るも無残に皺の寄ったスーツ、正気に戻ったらきっと慌てて泣きついてくるだろうさ、明日は面接が控えているんだろ?ああ、でもどこかにアイロンなんてもんあったかもしれねぇ。
「メシはー?」
「食べたー」
「じゃなくてオレのメシ」
「食べたー」
「じゃなくて、だから―――」
 ネクタイを外す手も止まり、オレは下に寝転ぶ不肖の恋人エイトを凝視した。それから足元に転がるビール、チューハイ、焼酎、ちくしょう隠しておいたウィスキーまであけやがったな、満面の笑顔で転がるこいつは笑い上戸だ。火照るほどにアルコールが回ってるうちはいつまでも酔って笑い転げている、そのくせその火照りが去ってしまえば酔いは嘘みたいに消え去っていく性質は燃費がいいんだか、悪いんだか、ああ、でも。
「…食べたのか」
「食べちゃった」
 にへら、と笑う顔は酔っている笑い上戸の顔じゃない、なにかを誤魔化したいときの笑顔だ、これは。夕飯抜き、という言葉が頭をよぎった。だってもう作る余裕も気力もない、パン―――はそうだ、今朝のが最後だったんだ。というか、もしも残っていたとしてもこの調子のエイトじゃ、手当たり次第に食い散らかしたんだろう、言うと怒るがエイトは小さい身体の割には大食漢だからなあ。

「ごめんねぇ、ククール」
 ため息混じりに膝をついたオレに、エイトはゆるゆる起き上がって顔を寄せた。猫みたいな仕草だ、と思って抱き寄せようとしたが、やめた。そんな気分ではなかった。
「怒った?」
「……つーかお前酒くせぇー…」
「ククールはなんかタバコくさい」
 首に回った手がキスをねだっている。鼻先を掠めた唇が薄く半開いて触れ合うのをまっていた。ちらりと覗いた舌が唾液に湿っていやらしい、と思った。そんな些細なことに欲情して貪った記憶が残っている、若かった、とまだ一年も経っていない時のことをまるで何年も昔のことのように思い出した自分が相当疲れているように感じてなんだか嫌な気分だ。
「一服しながら帰ってきたからだろ」
「ふぅん」
 いつまでたっても唇を触れ合わせないこちらの動きに焦れたのか、エイトは自発的に口を押しつけて舌先でゆるゆると唇をなぞらえた。やらしくて、可愛い、奴。思わず口端があがるように気持ちの弾む、それは願ってもないものだった。けれども、ねだった唇を軽く吸ってやってそれでお終いだ。物足りない、と潤んだ目が抗議しても知らないふりをする。別に、エイトが嫌いになったとかそういうんじゃあねぇんだ。

「したくないの?」
 最近してないよね、と滅多なことを口にするエイトの身体にはまだアルコールが残留しているらしい。そりゃそうだ、アルコール度数や量にも寄るが、どんなに早くたって人間の身体から完全にアルコールが抜けきるには最低2時間は必要だって言うんだから。そう、だからエイトは今酔っているんだろう、ふわふわ高揚する気分に乗じて少しタガが外れてるその様を何度見てきただろうか、もっとも見るためにそうしてきた回数の方が多いかもしれないが。
「してほしいのか?」
「…なんかククールってさぁ、ずるいよね」
「あー?」
 ご無沙汰どころか反応まで淡泊だよねぇと近付くエイトの首から捻れたネクタイを外してやる。元よりとうにネクタイの役割を果たしもせずにそこにあっただけのもんだ、ふさわしくそのまんま、放り投げておいてやろう。取り払われたタイの下はだらしなく開かれたボタン、その隙間からは白い肌と鎖骨が露になっていた。それを目前にオレは緩めておいたネクタイを引き抜いて、先ほど放ったネクタイの上にそれを重ねた。けたけたとエイトが笑う、笑いながらスーツを脱いでいく。
 ハンガーにかけろ、と言おうと思ったが、元より既に皺をつけているスーツに、もうあとの祭かと苦笑して、肢体を拝ませてもらうことにした。トランクスも一緒に脱ぎ捨てたのか、ワイシャツ一枚で座るフローリングは冷たいだろうに、エイトはまだ熱いとでも言わんばかりに残るボタンに手をかけていた。
「そんなに脱がなくたっていいぜ?」
「なんで?…またそういうプレイなの?」
「違うって」
 プレイってな、お前違うって。まあそんな言葉を知るきっかけを与えたのはオレかもしれないと思うのは驕りだろうか、とても愛しているものを目の前にしたら誰しもが持っちまう独占欲みたいなもんじゃねぇだろうか。上着だけ脱いでハンガーにかければ、両足放り出して床に手をついてこちらを見上げ、エイトは目を伏せがちに鼻歌を歌って待っていた。なにをって、オレをだろ。
「チョー、ゴキゲン?」
「なにがあ?」
 すぐ脇に置いてある冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。ミネラルウォーターっても今はもうただの水道水を詰めただけのシロモノに過ぎないんだけど、でも飲むし使うし使えるし、用途とは色々だ。特に面倒でこの狭い部屋の中でもあんまり動きたくねぇってときにはさ。
「そこ、冷たいだろ?座ンならベッドの上にしとけよ」
「うん」
 エイトがすぐ横のベッドにあがり、オレはそのすぐ後ろに腰を下ろした。端に追いやるようにペットボトルを置き、抱きかかえるように包みこめばエイトの体温を感じる。長い間フローリングに横たわっていたせいなんだろう、随分冷たい。外から帰ってきたとはいえ駅から歩いてきたオレの体温の方が、今日はよっぽど温かかった。
「ひゃ、ぅっ」
 それでも指先は、エイトの体温以上に冷たかったらしい。後ろから抱きすくめるようにしながら胸と股に手を這わせれば、びくりと身体を疎ませた。冷たい手がそれでもまだ少し温かい肌から熱をうつしとって同化していく。肩口に顔を埋めて顔を窺えば、熱っぽい溜め息をつきながらエイトは目を伏せオレにもたれかかった。震えるまつげを見ながら首筋を甘噛みし、舌を這わせてやろう。



「ふ、ンアッ…!!!」
 弾けたそれを掌で受け止めて、ゆるく息をあがらせたエイトの背中にキスをしてからペットボトルの近くに転がっていたティッシュを掴み、べたついた精液をふき取った。
「けっこう溜まってたな」
「だって、」
 そうだ最近してなかったもんなあと、心の呟きはエイトの呟きと重なった。拭ききれなかった分を拭うためにもう一枚、それからペットボトルをエイトに押し付け飲むように促した。なんで、と訝しげにも、蓋を開けて水を飲み込むエイトの腹には受け止め切れなかった精液がちらほらと飛んでいた。
「ちょっと、なにしてんの」
「見てわかんねーか?」
 もう一枚とティッシュに手を伸ばし、腹に飛んでいったそれを拭く。それは「ちょーだい」と水をねだった片手間にしたことだったけれど、唇が離れてなおエイトの眉間の皺を取り除くことはできなかった。
「なんで、もうしないの、どうして」
「あ、コラ!お前…」
 くるりと反転した身体が、勢いをつけてオレを後ろに突き飛ばす。馬鹿、こんにゃろあぶねぇじゃねぇか、後ろは壁だってのに。すんでのところで頭を打つことは逃れられたけど、うずくまってスーツのベルトを外し、ジッパーを下げたエイトは素早くも取り出したそれを口に含んでいたので唖然とした。
「エイト…」
 上から下まで口で上下させてみたり、筋を舌先で辿ったり、歯でしごいてみたり、あまつさえ両手すら使って動き出した。くぐもった声と唾液、湿った咥内とか、男を揺さぶる起因は信じられないほど詰まっていた、けれど。

「やめろって、エイト。な?」
 あやすように頭に手を伸ばせば、糸引いた唾液をもってエイトはそれから口を離していく。たださっきよりますます訝しげに皺を寄せ、目には涙すら滲ませていたけれども。
「…なんで、ちょっと、なんで。なんで勃たないの?オレ下手になった!?それともククールが不能になったの!?それとも―――…あっ!!いまさら男相手に勃たたなくなったとか!?ねぇ、ククールっ!!!」
「ばーか、ちげぇーよ」
 疲れてンの。って、覗き込んだ身体ごと抱きしめてやる。あのね、連日連夜仕事だ残業だって帰り遅かったじゃん、疲れもピークまで来て限界なんだぜぇ。週末までまだあと一日あるけどな。
「とりあえず今日はこれで勘弁してくれって、な?」
「…うー、そーつーきぃぃぃいいい…」
 ぐずぐずしゃくりあげ、胸にうずまったエイトは鼻をすすりあげた。ぼたぼたワイシャツに染みこんでいくあたたかい涙水は、一瞬の後に冷たくなって肌に張り付いたけれど。
「嘘なんかついてねぇって、なあおい」
 背中を撫でてやって、ああどうしてこんなことになってんだと思い返す。仕事で疲れて遅く帰ってみれば、既に出来上がっているエイトが転がっていた。エイトは夕飯は作ってないというし、抱きついてくるし、キスをしてくるし、そりゃあそれは恋人というものが示す当たり前の行為っつーか、なんつーか。…そういえばなんでこんなにエイトはのんでいたんだろうか、と見やるフローリングは片手で足りないくらいの空き缶が。こんな自棄になって飲むような奴じゃないのに。

「なー、…お前、今日も面接だったんだよな?」
「うるさい、面接なんか3日に1度は行ってらー!!」
「あー、そうだったそうだった」
 そんでもって今日で10回だか20回目の不合格通知を受けちゃったわけだ、今度卒業を迎える新卒予定の学生のエイト君は―――、慣れないスーツを着こみ毎日毎日履歴書の入ったカバンぶら下げて。
「―――…全然ダメだって、話になんないって…」
 時に真正面から悪意の言葉を浴びせられても笑って耐えてたんだろうよ、なあ。消え入りそうに呟いた弱音が、本当に弱々しく感じた。うん、たまにはいいんじゃねぇの、オレも疲れたり弱ったりすんけどさ、そーゆーときエイトがいてよかったと思うように、エイトもオレがいてよかったって思って欲しいし。
(でも今日は二人して落ち時だったけどな)

「……………ごめんね」
「あー?」
「……ごめん、って言ってんの。ククールも、疲れてたんでしょ」
 酔いが覚めて来たのか、ひととおり泣き喚いてすっきりしたのか、はたまたどっちだろうか。でもまあどっちでもいいかと思いながら抱きしめる、温かい、でも酒臭い。
「おやすみエイト」
 胸元におさまるエイトの髪に、ちゅうとくちづけて目を閉じる。電気がつけっぱなしだけどまあいいか、一日くらいと思った頃にはもう夢の淵。本当に疲れてたんだなあ、ああでもその前にスーツ脱がなきゃ皺に、つーか風呂、メシ、もういいや、眠っちまえ。

 それこそ夢もみずに熟睡して一日を終えた行き先は、明るい電気の光とごはんの炊けるにおい、シャワー浴びておいでよと聞こえた声に従えば、クローゼットの奥にしまわれてた筈のアイロンでスーツの皺を伸ばしているエイトの姿、つまり明日という今日が来たわけだ。

 定刻どおりの起床時間、やっぱり金曜が一番辛いし一番気合も入るよなあ。玄関口に立ったときに啄ばむようなキスはないけど、笑って見送ってくれんだからまあいいか。と思うんだ、そうだ、今日は何が何でも定時で帰ってやるから、そうしたら昨日の続きをしようと提案。満更でもなさそうな顔が憎まれ口みたいに「疲れてんじゃないの」と一蹴。一蹴?ただ照れてるだけだろって、なぁ。とりあえず今朝の段階では元気になりましたから?若いから一晩眠れば元どおりだって。

「いってらっしゃい」
「お前も気をつけていけよ」
「わかってるって」
 ドアが開く、朝がある。オレが仕事に向かった後、エイトは自分のスーツにアイロンをかけて面接に行くんだろう。着慣れないスーツ、それでも昨日より今日より…と馴染んでくんだろうか、オレも、エイトも。

 安っぽいドアの閉まる音が聞こえれば、そこはもう社会の戦場だった。カツンと靴の底をならして、ククールはまず第一戦を交えに駅へ向かった。






END