斜陽






 王と姫に見つけられるまで、僕は草の上で暮らしていた。それは今で思えば、生き長らえていた、だけなのかもしれない。

 海と空と大地、すべてが一望できる場所に僕は立っていて、あたたかい陽の光が柔らかな草にふりそそいで足の裏を一瞬あたためた。ふわ、と優しく世界はあたたかで、そして冷たい。はだかの足はそれでも傷つかずにいるけれど、歩き回ることは出来ないな、と感じて。それから僕は一体どうしてこんなところにいるのだろうかと思って、どうしてひとりでこんなとこにいるのだろうかと思って、帰るところ、どころか自分自身さえいったいなにものかのかわからないことに気が付いた。

 困ったな、という感覚はなかった。ただどうしようかと考えて、考えてもわからないことに気が付いて、それでもどうすることもできなくて大地に座り込んだ。眼前の海はざざん・ざざんとないていて、空はやがて赤く染まり、上にきらきらひかる灯火をちらしはじめた。

 それはすべてはじめて見るものだった、たぶん。膝を抱えて美しいものを目にしていながら途方にくれた。ぐうぐうおなかがなってしまって、てもとの草をちぎって口にしたけれど、苦くてとうてい食べられるものではなかった。吐き出した舌の上にまずい苦味を感じながらうつらうつらとした。闇は暗くて寒かった、けれど陽の光ほどではないにしろ、ほのかにしらんだ銀のひかりがつめたく世界をブルーに染め上げていたので、僕は夜をブルーの世界と呼んだ。夜、という言葉さえ知らなかった。

 うとうと船漕ぎをしているうちに、空は白んでまた昇った。冷たい世界に陽が差し込むと、驚くほど世界はあたたかになっていくのがわかる。この温度差、冷たく指先はやっと光を見つけて心に嬉しさを流し込んだ。

「あ」

 ぐぅ、とおなかがなった。そういえば、おなかがへっていたんだ。と思うのに、思うように身体は動いてはくれなかった。朝日と共に起き出した早起きの動物達が駆け回って食べ物を運んでいるのを見て、不思議に思う。僕はどうしてここに、ひとりでいるんだろう。木の上を器用に走り回るリスは、木の実をくわえて巣穴に戻っていくというのに。僕はどこへ戻ればいいのだろう。リスの鳴き声が耳をついた。1匹だけではないのか、思えば空を飛ぶカモメも、あの草の向こうにいる牛も、ひとりではなかった。ひとり、ふたり、さんにん、とかたまって一緒にいるのだから、そこかしこにいる魔物でさえも、群れをなしている、のだから。


 それは深く暗い海の底に沈んでいくような苦しさだった。抗う手足を持っているのにそうすることがわからない、苦しさに肺は震えているのに、これが苦しみなのか・と思うことが出来ない。無知・なのではない、ただ本当に、なにもかもを忘れてしまっていたのだと、それは後々にわかることなのだけれど。


 独りということを思い知って、途方にくれた。明るい世界にブルーな心は似つかわしくなかったが、でもほかになにを知ることが出来ただろうか。リセットされた心はたちまち恐怖を記憶して残した。独りということの恐怖。僕は動けなかった、陽が昇りそして沈み、月が巡っておいかけていくのをただ膝をかかえてじっとみつめていた。
 やがてそろり・と頭をこすりつけた小さなネズミにきがつくまで、ずっと。


 寂しくて寒い独りの時間にやっと光が照らされたような感覚だった。ぽつんと涙を零して、それはひどくあたたかで身体から抜け出ていった。僕は堰ききったようにわあわあ泣いた。とめどなく流れる熱い涙の痕、かすれる声は力なく、それでもしゃくりあげて止まることはなかった。

 ぼくはだれ、どうしてここにいるの、それは漠然と胸にのしかかり、そしてそれも恐怖だった。なにもかもがわからなかった。なにもかも知る由もなかった。




「おとうさま、だれか、泣いてる」

 道から外れた草原の、ずっと向こうの崖近く。そこに迷い子がいるなんて、王も従者も想像はつかなかったと言うけれど。
 遠く、風に乗った小さな声を、あの日の小さな姫が気がついてくれなかったらどうなっていただろうか。ただか細く弱って、死んでいたかしれない。自分が誰かもわからず、ただ静かにいのちの灯火を空にうつしゆくだけのように。



 けれど僕は今生きている。いのちを救われて大切にされてとても嬉しいと、思っている。

「僕はあの方達のためなら、この命を投げ出したっていいんだ」

 君があの人に対して、そう思っているように・とエイトは付け加えた。優しい顔をしてけっこう酷いことを言うんだな・とぼんやり思って、でもどうしたってどっちもどっちなんだとも、思った。しょうがないとも。

 それはただの嫉妬で、一番好きだ、愛していると言う癖に、でも一番大切なわけではないと言い切ってしまうエイトから聞き出した、いわゆる彼の昔話だった。ぼんやりと聞きながら窺うエイトの表情は、懐かしむというよりは思い出を慈しんでいるようでそれがまた癪に障った。それはもう、美しい過去の思い出なのか・と。
 けれどそうして嫉妬しながらククールはわかっていた。どんなに愛していても、一番大切かと問われれば、違うと言い切ってしまうエイトの心情を。ただ、嘘でもいいからそう言って欲しかった・と思う。それが嘘だったとしても、やっぱり自分は釈然としない気持ちを抱えるのだろうけど。
 わかってる、わかってるさ・と舌打ちをする。そうさわかってる、その人の根底に染み付く深い部分に入り込んだ光と闇は、結局どうしたって最後まで染み付いたまんま離れないんだ。エイトがそうであるように、ククールもそれをもっているように。それはお互いにどうしたって入り込めない部分だった。どんなに好きだって、愛していたってどうしようもない、どうにかするというのならもういっそ生まれ変わるしか方法はないんだ、と思考はそこまで行ってしまって、その馬鹿げた考えにククールはフと笑ってエイトを引き寄せた。

「ククール?」

 すべてが自分のものにならない。そしてすべてをエイトにやれない。わかっているのにそれでも貪欲に求めてしまう心が我儘だとか、そんなことも知っている。

 だからククールはまるで獣がするみたく噛み付くようにキスをして、自分勝手な感情に蓋をした。あの日、迷わずあの人を助けたその手で、エイトを抱き寄せた。







我儘なふたりの話。お互いにお互いを好きなのに、大切な人は違うというふたり。
大切な人たちも愛する人も、両方すべてを手にしたい強欲で我儘な人達の話でした。

2006/4/29     ナミコ