はじまりものがたり






 世界はとても静かだった。けれど優しく包んでさみしくないよ・と笑いかけてくれていた。いつも、いつも。

 きみはそれを知っていたのかな。

 ぼんやりと、そう思って。ぼくは彼を振り返る。彼はとても静かで冷たい美しさを持っていた。まるで、世界そのもののように。



 なんでこんなことになっちゃったのかなあ・って。ふと気が付けば思っている。ぼくと彼はとても不可思議な関係になってしまっていて、でもそれは何も知らない他の誰かが見たらとてもはっきりした関係にも見えているのだろう。変なの、男同士で身体を重ね合わせるなんて。正気の沙汰じゃない。とはいえ、ほとんど男しか存在しない職場で暮らす経験を持っていたぼくと彼は、そうとも言えなかったので、こうしてさもそれが当然のように成ってしまったんだろうな・とも思うわけだ。

 じっとり。暑い夜にさらに体温を熱くして、身体中に体液をこびりつかせる。はぁ、はあ・と息が頬にかかるほど近くて、こんなにも近くに人を感じるのは、それはとてもとても懐かしい感覚がした。じっとり。痛いのは僕のはずなのに、痛そうな、顔。そんな顔を見られたくなくて部屋の明かりの消えた後、獣のようににじり寄って来るんだろう。でも今日は月が明るいから、はっきりと見えてしまう。気配で感じていたことを、確信してしまう。

「痛い、よ……」

 今の彼に言葉は無意味で、聞こえているのかいないのか、ただ酷く扱ってぐいぐい腰を押し進めてくる。痛い。酷い。けれど一生懸命汗を流して、汗ばんだ手と手を繋いで。

「……痛い…」

 ぼくと彼の間には愛も恋もなにもなかった。まだ、仲間・とか、友情・すら形作られてない間柄で、身体だけが先に重なって一番近くに寄りそってしまった。彼を知らないぼくと、ぼくを知らない彼・のふたりよがりな性行為。
 息遣いが誰よりも近く感じた。好きな人の気配さえ、こんなに近くに感じたことがないのに。今まで出会った誰よりも、浅くそして深いこの。

 ぎちり。と、進みようのない肉と肉の間を、無理矢理進もうとする嫌な音。と、呼吸をする喉が思いがけずひゅう・と鳴ったそれが重なって、静かな部屋に、静かに響いた。ぎちぎち進むそれはまだ半分も埋まらなくて、ぼくは苦しくて、けれどどうしようもできなくて途方に暮れそうになる頭の中で昔のことを思い出していた。それもまた、静かな世界の中だった。

 高く硬い外壁に守られた城の外は、ひどく単純にできていることを知っている。弱肉強食、という言葉そのままに、強きが生き、そして弱きが死ぬのだ。たとえそこに弱きを守る強きがあったとしても、だ。それは人を守る高く堅い壁であるからして、そこを飛び出た弱きものは結局強きものに食われてしまうんだ。強き・を望まなければ、なおさらにこそ。けれど。あの言葉は単純明快に外で発揮しているだけではなかったんだ。それは生きるものの心に、その心すべてに宿されていて。それが力であっても、魔力であっても、とりとめなく左右される運であっても、みんな。

 弱きは強きに生かされているということを、忘れるんじゃないぞ。

 あの頃ぼくは強きではなくて、強きになったつもりでいた、ただの弱きものであった。

 きっと。いやだ・と言ったらあけっなくやめてくれるような気がした。けれど反して、そんなこと聞いてさえくれないような気もした。わからないよね、人の気持ちなんて。やめて欲しいのなら、繋がった手を払えばいいんだ、これは愛ではないのだから。それでもなおやまないというのなら、あの首に手をまわしてしまえばいいんだ、これは恋ではないのだから。

 けれども。愛も恋もなにもないくせに、今彼とぼくの身におきている痛ましい行為をとめようとはおもわない。力・は、ぼくの方が強いんだけどなあ。苛立たしいほどに憧れる体格差はあるとしても、だ。抗う力など見せず、享受するそれは。

「……いてぇ」

 じっとり。汗ばんだ掌がしっかり掌を掴んだ。ぬるり・とそこだけは滑りそうなくらい湿気ていて熱くて、気持ち悪いな・と思った。気付けば掌だけでなく触れ合う腕も腹も股もみな、じっとり湿り気を帯びていた。するり・と滑って通り過ぎてしまえそうだ・と思ったくらいに。それは頭をかすめ冗談のような揶揄でもあったのだけれど、そうと思ってしまうほどには。
 やがて「ハハ」と、乾いた笑いが形だけ言葉作られて上から降ってきた。ぼくは彼を知らない・知らなかった・けれど今、触れそうになって戸惑っている。ぎちぎち・嫌な音は止んで、無理矢理押し進められていたものはあっさりと引っこ抜かれた。下半身に圧していたそれはまるで栓が抜けるように呆気なくぼくの中から消えて、あまつさえ少しの空虚を残した。それは少しだけ、可笑しかった。

「なんでだろう、あんたの目は、…あんたの目は、あんたの目、を、見てると」

 言いよどむ言葉。彼は言葉を探していた。探しながら迷っている。月明かりに満たされた部屋ははっきりと世界を映し出して目に留まらせた。そのくせ目の前にかぶさる彼はあまり鮮明にはうつらなかった。近すぎる・のだろうか。蒼い、月明かりと同じ目は、まぶたに覆い隠されて見えないのだけれど、きっと動揺、混乱・そんな類の言葉すべて詰め込んで揺れているんだな・と漠然と感じた。
 ぼくの目を見てると、なに?そっと聞いてみた。彼は答えない。ぐっと言葉を押し殺してそこにいる。まるで泣いているみたいだ・なんて思っても言わない。いえなかった。

 じっと息を潜めて重なって、部屋はしん・と静まり返った。真夜中の世界はとても静かだった。真夜中だけでなく、世界はいつも静かだった。ひとりだから、静かだった。

 けれど君はもう、知っているはずだ。

 月明かりや風の音、夜に暮らす獣たちの寝息や自分の鼓動が。優しく包んでさみしくないよ・と。うずまったぼくの胸の上で聞こえているはずだ。



 静かにそっと、そのままに、眠りの淵に落ちて。明日はきっと、世界は痛ましくないと、知っている。







わけのわからないものをかいてしまった、だからなんとなくはじまりものがたりとでも思っておくのだ。

2006/6/3     ナミコ