いましがた恋に落ちたとこ







 しまった・と、思った。甘く苦しいこの状況に、ククールは固唾をのんだ。


 それはほんの数時間前に遡る。滞在していた宿屋の一室、夕食を後に夜は更けてもうあとは眠るばかりのときだった。
 昼間のレベルあげのために力を尽くした仲間たちは、夕食後早々に部屋にこもったきり出てこなかったし、事実ククールも疲れていた。多分、ベッドにもぐりこんだらもう、眠れてしまう・とわかっていた。けれどそれである前にククールは健康な男であって、そして少しばかり楽しいものに対して自制の気持ちが緩くなってしまうところがあった。昔の名残・だ。昔はそれを逃げ道にしていただけだったけれど、決して楽しくないわけではなかった。むしろ楽しいほうがよかった。疲弊した身体を気遣うなら、間違いなくそのままベッドに直行すべきだ。けれど楽しいものを求める心は違う意味でベッドに直行したいと思っている。もしもここで部屋を抜け出し、酒場へ行ってしまったとしたら。明日の惨劇は見るに明らかだ。時間がないと焦っている仲間たちを思えば、だけれども。

 ククールは部屋の中でぐるぐると思考を巡らせていた。最近は自分のことばかりでなく、ちゃんと仲間たちのことも考えている・と、思っている。パーティなんて、めんどくさい。ひとりのほうが気楽でよかった・なんてもう言えない。たった数ヶ月、それでも変わってしまう考えに、そして自分に、かけがえのないものを手に入れたようなきがして。

「………下で酒貰って、それでいいか」

 結局妥協案に甘んじた。

 宿屋はまだ少し、夜の活気にざわついていた。大人たちにとっては、眠るにはまだ少し早い時間だ。酒場ほどでないにしろ、イスとテーブルは埋まってしまっているし、アルコールをめぐらせた宿泊客が上機嫌で酒をすすめている。ひとりくらいなら、その中に紛れてちょっと酒を飲むくらい平気そうなかんじではあったが、これから多分、飲むペースをあげていきそうな人たちに混じって飲むのは気がひけた。女の子もいないし。

「なあ、部屋で飲みたいんだけど」

 ブランデーとグラスくれねぇか・と、ポケットの中のゴールドをいくらか気前よく支払う。にこり・と笑った主人はたっぷり量の入った上等なブランデーとグラスを差し出してくれたので、ククールも思わず口端があがった。ほんの一杯、それでよかったつもりだった。けれど、くれたものはしょーがねぇ・だなんて、しっかり買ったくせに都合のいい頭は都合のいい考えと解釈にぐるっとまわって鼻歌交じり。階段を上っていく足取りは、降りてきたものよりはるかに軽かった。

「ククール?」
「よう」

 階段をあがってすぐ、目に入ったのはよく知る人。もしかして、同じようなことを考えていたのか・と逡巡し、けれどそれは当たらずとも遠からずな答えだと思う。寝る前になにか飲もう・と考えるのはともかく、寝る前に酒場に行ってちょっと火遊びしようなんて、そんなこと。エイトは考えない。
 ああでもなにか飲むつもりだったんなら・と、少し浮ついた気分のククールはエイトに近寄り、たっぷりブランデーの入った瓶を目の前で振って見せた。たぷん・と、琥珀色の液体が瓶の中で揺れる。

「お前も飲む?そのつもりだったんじゃねぇの」

 琥珀色のブランデーは、揺れた後空気を含んでわずかばかりだが気泡すらのぼらされていった。それを見て、エイトはたっぷり逡巡する。食前酒、そして食後に一杯・などと隙さえあれば酒をたしなむククールと違って、エイトは自ら酒を飲むなんてことは滅多になかった。少なくとも、ククールがエイトたちと一緒に旅をし始めてからは一度も見たことはない。本当に、付き合いで飲むときくらいか。水かジュースかはたまた汁物を飲み物代わりに食べてしまうか。もしかして酒が苦手なのだろうかと、直接聞いたことがあったけれど、そうではないと否定されたこともある。

「ちょっとだけ、ね」

 人さし指と親指で「ちょっと」と示す動作が、まるで子供みたいでククールは本当に飲ませていいものかと思ってしまった。少なくとも、何回かエイトが酒を口にしているところを見たことがあるというのに。そんな馬鹿な考えは捨て置き、さっさと思考を切り替えてククールは早速エイトを部屋に招き入れる。グラスはひとつしか貰わなかったが、ひとつのグラスでも別にふたりして口をつければいいだけのこと・と、安易に考えて。もしそれが嫌だといったら自分は瓶ごと飲んでやる・とも。

「グラス一個しかねぇけど、いいよな」
「うん。構わない」




 それからなんだっけ、エイトは本当に一杯きりしか飲まなくて、けれどブランデーの瓶の中にはまだ半分以上残っていて、そこでやめとけばよかったのに、なんだか全部飲みきってしまわないといけないような妙な焦燥感に駆られ、他愛無いことを話しながらちびりちびりとそれをまるきりすべて、一滴すら残さず明けてしまった。その頃には記憶も意識もホワイトアウトしそうで、やっべえこりゃあ酒場に行ったのとかわらねぇ、むしろ行くよりヤバイ・と切れ切れになりそうな意識をかろうじて持ちこたえてイスの背もたれに寄りかかっていた。

「ちょっと、君。だいじょうぶ?」

 ひんやりと、冷たい掌が左頬に触れた。あ、気持ちいいかも・と、おぼつかない思考はもううっとりと、それこそ目の前の気持ちいい感覚だけを頼りに引き寄せる。利き手を触れられた手に重ねて、やっぱり自分の掌より低い温度のそれにじんわりとククールは心地いい温度を吸い取っていく。




 意識はそこで切れた。ぷつりと、ランプの炎がかき消されるよりもっと素早く、暗く、フェードアウトして。気がつけば、ベッドの上にいた。

 暗い部屋はランプの炎も灯っておらず、ただ月明かりだけが窓から煌々と差し込んでいた。重たいまぶたがうっすらと部屋を見渡して、そして今、ククールはベッドの上にひとりではないことを知る。抱き枕。いつも朝、気がつけば抱いてしまっている枕はちゃんと頭の下にあって、そして腕の中には熱い、くらいの人の体温。さっきはあんなにも、冷たくて気持ちいいと、思ったはずなのに。そうしてゆったりととりとめもないことを考えていた頭は、やがて冷静な思考を取り戻して、そして今度こそ本物の焦燥感を芽生えさせる。焦る、焦っている、どうしようもなく、素晴らしいほどにものすごく、ククールは焦った。ぷつりと途絶えてしまった意識と記憶の間が真っ白で、推測すらできなかった。ただお互いに裸ではなかった、ということがまだその焦燥感に救いを与えていた。よかった、と思う反面でも服を着ていたって出来ることは出来る、と思考は行き着いてしまったのでやっぱり焦燥感に歯止めはきかなかった。

(あー……どうしよう)

 不幸にも、と言うべきか。はたまた幸いにも、というべきか。暗闇と近すぎる距離のせいでククールはエイトの顔を窺い知ることはできなかった。抱き枕にするにしては近すぎる、これでは本当に情事の後、抱き寄せて眠りあう恋人みたいな距離だった。
 うろ覚えすぎる白濁した記憶を辿っても、答えはでてこない。せめてせめて、泣かせていなかったらいいと思って、ククールは酔いの回ったぐちゃぐちゃな思考のなか、しっかりと自分の意思でもってエイトを抱きしめた。

(あー……どうしよう…!!!)

 どくどくと、心臓が波打った。動悸が激しく少し息苦しく感じた。どうして・と思う。わかっていながら心はどうして・と問う。腕の中に抱きしめた体温が、いとしくてどうしようもなく、かんじた・なんて。



 ごくりと固唾をのんだククールは、このままエイトを眠らせてやりたい気持ちと、起こしてもっと強く抱きしめたい衝動とで苛まれた。どうしよう・と、もう一度心の中で呟いた。
 その夜は、まだ、長い。







2006/10/7     ナミコ