酷い雨に見舞われて


 僕は逃げていた。のだと思う。今となってはこの酷い雨の中、閉じ込められた廃屋の中でそう思うしかないんだ。だって君は壊れそうに瞳を歪ませてそこに立っている。そんな表情を見てしまったら、もう僕は息を呑んで君に立ち向かわなければならないんだと、その覚悟を決めなければならないんだと。


「こんなときに不謹慎かもしれないけど、楽しいって思うんだ。嬉しいって思うんだ」
 どうしてだろうね、と呟いた。その言葉にひどく驚いていたのは自分自身で、こんなことを呟いてしまったことにも驚いて、それがしかもどうして彼に対して言ってしまったのか、ああでも彼にしか言えなかったのかもしれないとも思い、酷く狼狽した頃彼は小さく笑って「そういうことに負い目を持つ必要はない」のだと頭を撫でてくれた。
 なぜ、とかどうして、だとかは思わなかった。ただ彼の言葉はすんなりと僕の内に入って溶け込んでいったから、ああそうなのかと僕ただ素直にそう思って、笑った。彼に言ってよかった。なんとなく、引っ張っていかなくては、守らなくては、という気持ちに焦りが加わってらしくないことをしていた気がしてきたのに、今はもう安堵によってそれはすべからく形をなくしていた。僕は彼を頼りにしている。彼がいるお陰でとどめていた弱々しいものを強いものへと変えていける気がする。
 僕は彼が好きだった。きっと、年の近い兄がいたらこんなふうに憧憬を抱くのだろう。

 ヤンガスは僕を慕い、僕も彼を似たような気持ちで慕い、彼はゼシカを女の子として好意を寄せて、ゼシカはとりわけ姫の傍に行く。誰か一人に対して同じ気持ちを持つわけではなかったけれど、点と位置する自分は、なんらかの意識の線を相手に向けては繋がって、そうして誰かと関係していくのだ、きっと。けれど僕の思惑は、思ったところより少し逸れて違うところで動いていたみたいだった。後になってしまえばそれを見当違いだったとでも言うのだろうか。とにかく僕は少しだけ勘違いをしていて、その勘違いからのギャップに戸惑ってしまっていたんだと思う。
「こんなときに不謹慎かもしれないけど、エイト。オレはお前が好きだよ」
 なんの前触れがあったんだろうか、僕が彼を年の近い兄みたいに好きだと思った次の瞬間この言葉が僕に降りかかった。僕を、好き。彼が、僕を好きだという。なにを言っているのだろうか、そういう意味ではなく、好きだ、と言うにはあんまり真摯な彼の表情に僕は息を呑んだ。心臓をヒヤリと撫でる、この感覚は。だって、君は。君は女の子が好きなんだろう、ゼシカみたいに可愛い女の子が好きなんだろう。知っているよ、どんな街に行ったって女の子に声をかけられている。君はそれを嬉しそうに受け止めて、ときどき宿に戻らない夜があることだって、ちゃんと知っている。女の子が好きなんだろう、一人寝は寂しいんだろう、いつだって思っている人はただ一人なんだろう。
「驚かせちまったよな」
 寂しく笑った君はそっと手を伸ばして僕の頬に触れた。びくり、とすくんだ肩が心の動揺を表している。しまった、と思ってももう遅い。成してしまった反応はもう取り戻すことなんて出来ないのだから仕方がないのに、それでも心の中はひどく後悔しては自分を叱咤している。そんなつもりじゃなかったとでも言えばいいのだろうか、だけれどそれはなんのために?自分自身、問いかけても答えなど分かるはずもなく、ただどうしてだろうと思うばかりになのに。頬から離れた手が申し訳なさそうに下に落ちた。普段は皮の手袋に隠されて見えない形のきれいな指先が丸まって拳にかたづくられた。男からこんなこと言われるなんて。悪い。嫌だよな。でも本当だ。嘘じゃない。本当に好きだ。好きだよ、エイト。
 ぴたりと閉じたままの唇からは言葉が出ない。言うべき言葉を捜しても、破片がちらちら脳裏に霞むだけで肝心な単語は見つからない。狼狽した心はどうしよう、どうしようと埃さえ舞うほどに驚き焦っているのに、それを包む身体は努めて冷静にそこにあった。心が飛んでいってしまった、だから身体は動かない。彼はと言えば、そんな僕を目前に否定的な展開に饒舌に話を進めていたものだから、つい丁度いい、このままこの話がなかったようになってくれればいいなんて思ってしまったのも確かな思いで。
「いつになったっていいから……、お前の気持ちも聞かせてくれよ」
 逃れられない事実を残して、彼は去った。去った、というよりはこの話を打ち止めていつもの変わらない彼を演じた。僕は彼の後姿を見ていた。信じられないことを言った彼に、いつかどんな言葉を聞かせればいいのだろうかと考えながら。彼を傷つかせず、尚ふたりにとって一番いい言葉とは。けれどそれは多分、彼の求めていた僕の気持ちというにはかけ離れていてまったく異質なものになってしまうのだ。なんて難しいものをくれたんだろうかと、夜毎思い出してはどうしようもない息苦しさに苛まれて深く布団を被った。

 けれどそれももうおしまいだ。いつまでたっても答えを見せない僕に、なにもなかったことにしたいように振る舞っている僕に、痺れを切らした君はもう堪えられないと言っているから。ちょっと散歩だなんて、ついていかなければよかった。街の外へ歩き出す君を止めていればよかった。ちょっとの雨でもすぐにルーラを唱えていればよかった。僕は逃げていた。否、逃げているのだ。今となってはこの酷い雨の中、閉じ込められた廃屋の中でそう思うしかないんだ。だって君は壊れそうに瞳を歪ませてそこに立っている。そんな表情を見てしまったら、もう僕は息を呑んで君に立ち向かわなければならないんだと、その覚悟を決めなければならないんだと。
 思えば僕は、僕の心を明け渡す誰かを作ることを全身で拒否していたのかもしれない。心すべて見せなくても、愛も恋も情も成立はするだろうに、それでも尚それを乗り越え打ち破り本質を捉えようとする君はいとも容易くそれを求めるだろうし、なによりも怖かったんだ。記憶がないというものは酷く恐ろしいものだよ、僕は僕だと信じることすら出来なく、あやふやになんだかよくわからなくなってしまっては時折抜け出すことの出来ない深い闇に囚われたように心が死にそうになってしまうんだ。僕は一体何者なんだろう、人の姿をした魔物なんてこの世界にはありふれているし、似通った種族だって山といる。僕は一体何者なんだろう。遠く異国の地で異種族で結ばれた人達の話を耳にしたことがあった。ふらりと立ち寄った旅中の吟遊詩人の歌は美しく儚く二人の恋をうたっていたけれど、悲しい終末にすべては終わっていて。共存は出来ても、異種族で結ばれることは叶わないのだと、わかる。命の流れの違うもの同士が共にいても、お互いの首を絞めることしか出来ないのだから。非業の死を遂げる恋人達は、逝ってしまった場所でなにを思うのか、知らない。死者はなにも語らないから。僕を何者とも思えない僕自身は、答えを出すことが出来ない。口を閉ざしてただ、心だけは奪われまいと思った。せめて記憶があったら答えを出せただろうか、ひどく訝ってる僕のこれがただ杞憂ならばいいと思う、けれどそう思い切れないのはやはり自分自身に問題があった。普通の人間は、呪いなんて弾くことは出来ないのに。普通の人間らしからぬ事実がひとつあることは、例えひとつであろうと僕に多大なる不安要素を与えることだから。大切なものを大切だと思うように、心からなにかを慈しんで心を許した人を守りたいと思う。共に、生きれたらと、思うのに。
 この心すべて明け渡す誰かでなくても、ただ大切だった。大切に慈しんで傍に居たいと思った。それでも置いていくことも置いていかれることも酷く辛く苦しかった。愛してる、と言われて。愛してる、と返して。それで君は満足してくれるだろうか。心すべて君にあげることは出来ないけど、それでもそれ以外のすべてをあげるといったとしても、君は。貪欲な君は。
 心もすべて欲しいのだと、今僕を見ているから。
「エイト…」
 苦しげにおののく喉から出た声は酷く掠れていた。それはもう彼がどれほどに今張り詰めた糸のように危ういかを容易く想像できて、遣る瀬無い想いが胸に感じられた。彼をこんなにも追い詰めたのは僕なんだろうか、多分、それは自惚れなどではない。エイト、エイト、エイト、と。何度呼ばれただろうか。まっすぐこちらを見る彼は言葉と一緒に思いも募らせている。そしてなにも伝えようとしない僕に苛立ち悲愴に思っている。
「エイト、どうして…」
 伸びた腕が僕を絡めとり、強く抱きしめられた。滑りのよい銀糸がさらりと音を立てたような気がして、抱きしめられた肩口からそっとうかがったけれどそんな音は聞こえず、ただ黒いリボンが揺れていた。苦しい。きつく強く抱きしめられているわけではなかった、彼の苦しさが伝染したかのように心に移って痛ましく肺をおかしくさせた。呼吸をしなければと、息を吸い込めど気管はうまく動かずうろたえた頃、絶え間なく香る彼の香りに包まれていることを知り、ひどく狼狽した。
「どうしてって…。だって君は、いつになってもいいからって」
 いつかって、いつだろうか。あやふやな言葉に僕はいつも逃げ道を探しているよ。君の言葉も想いもみんな、僕を