銀河と星







 ククールは汽車に乗った。途方に暮れて重く膿んだ頭はぼぉっとして、でもただ意識は妙に鮮明だった。硬い二等客車の粗末な座席に腰をかけ、外を見る。四角い窓は景色を切り取ってまるで一枚の絵のように映し出していたけれど、次々と瞬く間にそれは変わっていった。当たり前だった、だって汽車はもうとっくに走り出していた。

「失礼、切符を」
 隣の座席から声がした。無機質なやりとりのものだったそれは、二言三言、言葉を交わすうちに柔らかくなって、消える。切符・か。と、ククールは掌を見る。ポケットにしまおうと思って、でもそのままずっと掌に持ったままの切符。路銀の心配はなかったから、この汽車が行き着くところ、いちばん遠い場所へ行く切符を買った。そんな切符を買うのは、いったいどんな人間なのだろうかと、自分のことは棚に上げて考えた。それはたとえば故郷がそこにあるひとだったり、そこへ仕事へいくひとだったり、だろうか。なにも…そういったものがなにもないひとが、そういうものを選ぶときはどういったものだろうか。
「切符を」
 先ほどの柔らかさを名残に残した声が、今度は自分にかけられる。ぼんやりとした思考のまま、ククールは車掌に切符を渡した。パチン・と、切符の端が欠けて、もう一度掌に戻って、無機質なやりとりは終わった。

 ほんの一昔前・だと思う。なぜならククールはそのときのことを、まだ鮮明に覚えていたから。昔、世界を救ったことがある。流れのままに着いていった旅路の果て、ほんの敵討ちのための戦いが、世界を危機から救う戦いとなった。その戦いを共にした仲間たちのことは、今でもとてもかけがえのない仲間だと思っている。そんなふうに思うとは、旅のはじまりには思えなかったのだけれど、過ぎ行く日々の積み重ねというものは思うほか大切なものだったらしい。おかげでククールは大切なものを大切だと思えるようになれたし、自分自身のことも知った。泣きたい気持ちもやるせない気持ちも、誰かを大切に思う心や、愛しく思う心や、思いやりすら。たぶん旅に出ていなければ知らずにすぎてしまうだろうささやかでけれど、大切なひとつひとつのものを感じることが出来た。たぶんもう、あんなに心を動かされることなんてない・と、仲間たちに笑いかけた。旅は終わってしまったけれど、みんなで過ごす時間がなくなりはしないと、信じていたからだ。

 永遠に続くなにかなんて、ないのに。

 はじめはトロデーンのお姫様だった。いや、かつてお姫様であった女王だった。穏やかで優しい、世間知らずのお姫様は、いつしか国を統べる女王となって立派に国を治めていた。国中の民は彼女を信頼し、彼女の治める国で幸せに暮らしていた。彼女はそうして末永くトロデーンを統べ、豊かな未来に導いてくれるだろうと、誰もが信じていた。けれどそうして動き出して間もなく、彼女は熱病に侵され死んでしまった。彼女の葬儀には国中が悼み、悲しみ、長い間喪に服していた。その間、ククールもずっと、トロデーンにいた。特別親しくしていたわけではないけれど、しかしかつて仲間として共に旅をした彼女だ。いざ棺の中で眠るように横たわる彼女を見たときは、ぽっかりとした喪失感を覚えてやるせなくなった。ククールでさえそう思うのだから、隣にいるかつて仲間を率いた少年は、もっとひどい喪失感を覚えているのだろうと思った。初恋の人だったのだという。それは結局ずっと、少年の胸の中にしまわれていたようだったけれど、彼女を目にした少年の、その蒼白な顔は今でも忘れられない。必死で毎日を生きる少年を見てきた。笑い、泣き、怒り、くるくるまわる感情を目の当たりにして、そしていつしか、ククールは少年のククールにしか見せない気持ちすら手に入れた。幸せだった。そして喪う痛みに折れそうな少年を、ずっとずっと支えてきた。彼女の葬儀のその翌年、娘を追うように崩御したかつての賢王に泣き崩れた少年を。

 車窓はようやく知らない景色へとうつった。世界中を旅していたとはいえ、しかしかつての世界とはもう百八十度変わってしまっていた。あの頃と同じように世界を巡っても、もう同じ景色は二度と得ることはできないのだ。ククールは喪う痛みを知っていた。知っていたとしても、それは年を経て、数を経ても、やはり痛々しくてたまらないのだ。できることなら、もう二度とそんな痛みとは遭遇したくない・と、思いながら毎日を生きている。けれど痛ましい遭遇は、生きれば生きるほど続いてしまうのだから理不尽だった。生きるということは、はじめは辛くて仕方がなかった。それがいつしか輝き始めて素晴らしいものに変わり、そうして今は、また痛ましくて辛いものになってしまった。もう、本当に、ククールはかつてのどうしようもない自分に戻ってしまっていた。大切なものを知っている。愛しいものを知っている。欲しいものも、捨てなくてはいけないものも、全部、ちゃんと理解できるようになったっていうのに、踏みとどまって後戻りしてしまった。ごめん・と小さく呟く。謝るくらいなら、ちゃんとしてって、きっと、少年だったら言うのだろうに。ごめん。



 気がつけば、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。日が高い頃出発したはずの世界はとうに暗くなり、空には星が煌々と輝いていた。ククールはふと、向かい合った座席にいつの間にか人間が座っていたことに気がついた。ダークブラウンのくたびれた革のブーツ、デニムのパンツに、薄暗いけど、わかる。だってそれは昔、よく見慣れた色だった。黄色のチュニックに、インナーの水色のシャツを腕まくり。黒い瞳、黒い髪と、それを覆うオレンジのバンダナ。
 どうして、あいつがここに。ハッと息を呑む気配が、相手に伝わったのだろうか、向かいに座っていた少年は、車窓の外に向けていた視線をそのまままっすぐククールに向けた。にこり・と、笑う。それは記憶の中の少年と寸分違わないままの少年だった。ククールはふと、夢でもみているのだろうかといぶかしんで、眉を潜めて目の前の少年を見つめた。

「どうしたの、ククール」
 寝ぼけてる?と、少年は首を傾げてこちらを見る。ほうけたようにじっと少年を見つめたままのククールの掌に、そっと少年の掌が重なった。あたたかい、なつかしい体温。
「どうしてお前がここにいるんだ」
 すると急に少年はバツが悪くなったかのように少しだけ眉をたれ、苦笑した。
「エイト…」
 絶望的な気持ちになって、ククールはエイトの名前を呼んだ。口の中で反芻する言葉、繰り返し繰り替えて呟いた言葉の数は計り知れない。
「エイト…」
「うん、なあに」
 計り知れないその痛みは、きっと永遠に続くはずだった。けれどやっぱり、永遠なんてものは、どこにもないのだ。今ここでこうして、永遠に続くかと思われた痛みは、途絶えたのだから。
「…エイト、エイト、エイト」
「どうしたんだよ、ククール」
 ここにいるよ・と、重なった掌がぎゅうと力を込めてかえってきた。その掌の上からククールは、もうひとつ、自分の掌を重ねる。握り締めて、離さないように、強く、強く、力をこめて。
「ちょ、ちょっと、ククール。痛いってば」
「……やっと、あえた」
「ククール?」
「お前がいないと、オレ…」
「………………」

 情けないと思ったけれど、ククールは涙を止めるすべがわからなった。ただ双眸からぼろぼろと、自分の意思とは関係なしに涙が零れていった。そうして心は熱く、熱を孕んでとどまった。情けないことに、嗚咽まで身体の奥からやってきてククールを支配していた。それをエイトは辛抱強く黙って見守っていた。時折ククールの背中をさすってやり、涙を拭ってやったり、頭を撫でてやったりすらした。まるで子供をあやしているような状態に、ククールが気付いたところで、ふらふらとした頭はやっと少しばかりの冷静さを取り戻した。
「…ごめん」
「…どうして?」
 エイトは笑った。とてもとても優しい顔で笑った。ククールはそんなエイトの顔をはじめてみたような気がした。
「どうして謝るの」
 エイトは心底不思議そうにククールをみた。エイトの黒い瞳にうつる自分の、その情けない姿をぼんやりと見ながら「だって」と、小さく呟いた。消え入りそうな声だった。正直、生まれて今までこんな声なんかだしたことない。喉が震えてまた嗚咽と涙が零れそうになるのを必死に堪え、ククールはエイトと向き合った。向き合ってひとつひとつの言葉と気持ちを一生懸命つむごうと努力した。
「…だって、こんな。お前…、」
 情けないじゃないか・と言う言葉は喉の奥で詰まって出てこなかった。情けない。いい大人が、嗚咽すら零してぼろぼろ泣いて、情けないどころか、みっとみない。思った言葉はそれでも音になってはでてこない。けれどまるで、その意思を感じ取ったかのように、エイトは笑う。だいじょうぶ、わかっているよと言って貰えたみたいで、それだけでククールはまた、安堵してしまうのだ。
「かつての僕を支えてくれた、優しい君。ありがとう。いつか僕たちは約束したよね、ずっとこの先、僕は君の支えになって、君は僕の支えになるって」
 そうしてずっと、一緒に行こうと。

 ガタンゴトン。線路の上を行く汽車。ぐるぐるまわる車輪の音と、煙を吐く音がシュポシュポ響いて、それから唐突にククールは、そこに広がる銀河を感じた。暗い夜空に光る星、汽車の中も世界も、まるで頼れるのは月明かりだけだというくらいに薄暗かったから、そんなことを感じたのかもしれない。いつのまにか車両は、ククールとエイトとふたりきり。狭いようで、意外と広いこの箱の中にふたりはいた。

「ずっと…一緒に、いられるんだよな」
 暗闇の中で見えるのは、煌々と光る星の輝きだけだった。車窓は夜空と星座を切り取って、一枚の絵にする。その一枚の絵の前にふたり向き合って、ぼんやり輪郭をうつしているククールとエイトは、たぶん、星たちから見ればふたりこそ一枚の絵になっているのだと思うのだろう。懇願するようにつぶやいたククールの言葉を、エイトはじっと受け止めて、黙ったままでいる。まばたきすら惜しんで、ただ考え込んでいる。
 どれくらいの時間、ふたりは沈黙していただろうか。それはとてもとても長い時の果てのように思えたけれど、実は本当はそんなに長くはなかったのかもしれない。じっと息を潜めてそれを見守っていたククールは、あんまり張り詰めてそれを見ていたものだから、ほんのちょっとの時間がとてもとても長く感じられた。そんなふうに感じた時間を経て、ぽつんと、エイトは一言呟いた。

「どうか、しあわせに」



 ぽつん・と、しずくが零れるように優しく穏やかに、眠りは覚めた。夢、だったのだろうか。それにしてもそれはとてもリアルで、とても、―――残酷だった。じわり・と、まぶたが熱くなってぼんやり視界がぼやけてまた、クリアになった。ぽたぽたと、熱いしずくが零れて服に染みを作っていく。けれど構わなかった、夢の中のように嗚咽が鳴っても、それでも涙は止まらなかった。
「…エイト…」
 悲しく痛ましい呟きに、もう、言葉は返ってこないのだから。


 ただただしあわせになりたいと願っていたあの頃を、覚えている。自分のことばかりしか考えていなかったせいだろう、周りには敵ばかり、それでも誰かに自分を愛して欲しかった。かけがえなくうしなわれない、無償の愛を、いくつもいくつも求めていた。しあわせになりたかった。ただただしあわせになりたかった。けれど自分のしあわせとはなにかを考えて、わからなかった、愚かな自分。けれど今なら。今ならわかる。どこまでも一緒にいて、しあわせをエイトに与えてあげたかった。そうして一緒にしあわせになりたかった。
 ずっと一緒にいた最後のとき、なあ。お前は、しあわせだっただろうか。



 強く、汽笛が鳴って、汽車は遠くへ走っていった。エイトがいたあの頃は、まだ世界を駆け巡ってはいなかった。遠く遠く、人の足で行き着くのも困難な道のりすら越えてゆくあの箱は、もしかしたら人を、行きたいところへ連れて行ってくれるのだろうか。それはたんなる道のりだけではなく、もしかしたら。

「このッ…、バカリスマっ!!」
 高く、けれどあの頃よりは少し低くなってしまった仲間の声に、振り返る。どことも知れない真夜中の駅で、息をきらしてかつて少女であった女が、こちらを睨みつけていた。強く射抜くような双眸も、けれど今は弱く涙が光っている。その後ろに、やはりかつて仲間であった山賊上がりの男もいた。男はとてもお人好しであったから、その風貌とは似合わぬしょげた表情をして、こちらをみていた。彼女はもう、魔法を使わない。男も、ククールもそうだった。月日と共に魔力は失われ、まるで空に還っていったように夜空の星々を輝かせた。
「美しい君に、涙は似合わないよ」
 いたずらに、ククールは昔を思い出してふざけて見せた。けれど彼女はますますひどくヒステリックに叫んで泣いた。そうして男はそんな彼女を哀れむように見て、慰めてやるのだ。ああ、あれから変わってしまったのは自分だけではなかった・と。自分たちの中で、エイトはどれだけ大切だったろうか。どれだけ心を占めていただろうか。喪うにはあまりにも辛すぎて、痛かった。決して泣かない彼女は痛ましいくらいに涙を零しているし、男は少し臆病になっていったような気がした。ククールは昔に戻ったみたいにやることなすことがおかしかった。それでもかろうじてなにかをたもとうと、ギリギリに糸を張り巡らして均衡を保っていたんだろう。どうして今まで会わなかったんだろう。どうして今まで話さなかったんだろう。仲間だったのに。

「なあ、あの頃の旅から、ひとり抜けて、ふたり抜けて、エイトまでいなくなっちまったけど、よ。オレたちはまだ、ここにいるだろ。なあ」

 ぎこちなくククールは笑って、彼女の掌にそっと触れた。外気にさらされた、冷たい冷たい指先だった。けれどほのかな体温を持っていたから、ほっと安堵してククールは隣の男の顔を覗き込んだ。男もまた、ぎこちなく笑い、彼女とククールの繋がる掌に、大きな両手でそれをくるんだ。男の手はとても、あたたかかった。

 どうか、しあわせに。ククールは心でそっと、言葉を反芻し、夜空をみあげた。輝く星々、その下で、ククールは彼が愛した人のために、しあわせになる約束を、する。






偉大なる宮沢賢治先生へよせて
銀河鉄道の夜、だいすきなんです

2006/12/8     ナミコ