6 光の素足









 忘れられた塔で時のオーブを前にして、強く戻りたいと願った。大好きな、キミの手を離して、それでも。

 それが仲間のためなのか、自分のためなのか、気持ちは複雑すぎてわからなかったけど。でも、戻った時間のその先で久しぶりに見たベロニカの動く姿を見て、涙が溢れそうになったのは事実だから。

 今度は守られるんじゃなくて、守るのだと強く心に誓って振り向いた。禍々しい魔王の剣は闇の力を祓い、あのときあんなにも苦しめられた戦いが嘘のようにこちらの好機へと変わっていく。逆転の勝利を収めると、魔王は正体を現す…ことはなく、闇に堕ちた腹心の仕業ということにすり替えられて彼は終末を迎えた。
 今度は、今度は。分かり合えることもなくなったんだ、と灰暗い喜びが湧きあがってくるのを感じた。ひどいことをしたからその報いが返ってきたんだよ、とレヴンは笑おうとしたがうまくいかなかった。顔は引きつり心はただ息苦しかった。

「レヴン?」
 相変わらずカミュはレヴンを気にかけ仲間の誰よりも深く大きく慈しんでくれる。額をくっつけその目の中を覗き込む。淡いスカイブルーの目が心配そうにレヴンを窺っているのがよくわかった。だけどレヴンはその心配に値する人間なのだろうかと、暗い気持ちで自問自答する。戻ってきて、喪わずにすんだものもあったけど、あのときただひたすらカミュを求めていたまっすぐなレヴンの気持ちはなくなってしまったように思える。
 そう、ホメロスの不幸を願った。ただ怒りと憎しみの感情のままに、あの一太刀を止めもしなかった自分自身はそれを望んでいたから。
 だけどどうだ、この苦しさは。あの人の苦しみと葛藤のかけらをあの魔城で知ったはずなのに、光の象徴である勇者というフィルターを通してグレイグを見ていたことが許せなくて、レヴン自身がホメロスを突き落としたのだ、地獄に。

 じわり、と涙がにじむ。

「俺は、あの人が、死ねばいいと…思ったんだ」
 溢れ出た涙にカミュはびっくりしたようだったが、すぐに頭を撫で、背中を撫で、こぼれる涙を袖口で拭ってくれた。さすがお兄ちゃんだよね、と口をついて出そうになったが、それはまだこの世界では知りえないことだと思い至り、レヴンは口を噤んだ。
「そりゃあお前、あんなことされたんだ。そう思っちまっても仕方ないだろ」
 慰める声に気休めは含まれでおらず、きっとカミュは本気でそう言ってくれてるのがわかった。だけどレヴンには、その優しさが今は少しだけ苦しかった。
 いま、レヴンの心の中にある苦しさや罪悪感、それの少し前に心を占めた葛藤や息苦しさは恐らく全部、ホメロスが抱いていたものと同じようなもののはずだから。
「あの人は、あの魔城で、ようやく少しだけ楽になれたはずだったのに」
「レヴン?」
「俺がそれを踏みにじったんだ」

 もう、酷いことされたんだなんて言えない。同じくらい酷いことを、レヴンだってしてしまったんだから。





***






 邪神を倒してもう一度忘れられた塔に足を踏み入れたその時まで、レヴンは本当は迷っていた。セニカに勇者の力を渡すべきか、否か。
 できることならもう一度あの時に戻って、あの人を救ってあげたかった。そうしなければレヴン自身も救われないような気がしていたから。
 だけどここにきてレヴンは、母ペルラの言葉を繰り返し繰り返し思い返している。やられたことをそのままやり返したレヴンは今、後悔の気持ちしかない。ただ被害者のままでいればよかったはじめの世界とは違ってもう、どんなに悔やんでもあの頃の自分には戻れやしない。
 レヴン自身を愛し、許してくれる人がいたとしても、知らなかったころにはもう戻れないのだ。
 だから、戻ってきた世界では後ろめたさが心を巣食っていて、優しいカミュの手に素直に寄りかかることができない。
 決して望んでいないわけじゃなかった。できることならその手を取りたいと思うのに、その手がカミュの手と繋がれば、レヴンはこれでいいのかと考えてしまう。
 だけどもう一度戻って、あの人を救うと言いながら苦しい自分自身を救ってほしいと思っていることはものすごくおこがましいことなんじゃないだろうか。

 ぐるぐるぐるぐる思考が回る。

「ここ、なんだか。来た事ある気がするわ」
 ぽそ、とシルビアがそう呟いた。
「そう?初めて来たと思うけど」と、ベロニカ。
 そりゃそうだよ、ベロニカは初めて来たに違いないんだから、と思ってレヴンはハッとした。
「でもわたしも、前に来たことがあるような気がしますわ。そう…遠い昔に」

 遠い昔を思い馳せるように目を細める仲間たちに、レヴンは驚いた。戻ってきたのはレヴンだけのはずなのに。
「世界も、みんなも、あのまま残してきたのに…」
 ぽつり、とレヴンは呟いた。覚えているのか、はたまた魂に想いを刻み付けたとでもいうのだろうか。カミュはこちらを見たが、淡いスカイブルーの目を細めて微笑んだだけだった。

「ふう」

 時のオーブを前に、深く深呼吸してレヴンは心を落ち着かせた。
 この苦しみを知って、彼を助けたいと願った末にもう一度次のロトゼタシアに行ったとして。
 世界樹であの人の命を繋ぎ止めても、あの人の苦しみはそこでは終わらない。あの人の求める救いは、勇者のもたらすものではないから…。
 ならば。

 遥か昔、過去を求めることの敵わなかった賢者に剣と、そして光の力を。

「どうか、願わくば、勇者の力のいらない世界を、」紡いで、と。

 光の渦に消えた賢者セニカを見送り、レヴンは今度こそ仲間たちのいる世界に留まることを選んだ。


 胸に巣食う苦しみはかわらずそこに留まっているが、それが自分がしたことの代償なのだと思えば耐えることは当然のように思えた。
「お疲れさん」
 ぽんぽん、と頭を撫でるカミュの手を、久しぶりに素直に嬉しいと感じることができたのは、自分自身の中にある大きな壁を飛び越えることができたからなのかもしれない。
 それでも、昔みたいになりふり構わず抱きついたりなんかはできそうにないけれど。

「キミ達って、本当に…」
「仲がいい、だろ?」
 思いついたようにマルティナが言った言葉の端をカミュが受け取って、にっこり笑ったかと思ったらグイッとレヴンを引き寄せて腕の中に閉じ込めた。

「先に村に帰ってるぜ」

 あっという間にキメラの翼を投げたカミュは、レヴンを連れ去り塔から去った。呆気にとられた仲間たちの顔が一瞬見えたが、光に包まれかき消えるように無くなった。
 急な出来事にレヴンは一瞬頭がまっしろになったが、カミュは飄々とレヴンを抱きかかえて最後に訪れたネルセンの宿屋の門を飛び出した。

「ちょ、どこいくの!?」
「邪魔が入らない所?」
「邪魔って…」

 麦畑をかきわけ奥へ奥へと行った先の最奥で、カミュはレヴンを地面におろした。目をぱちぱちと瞬きしていると、噛みつくようにキスをしてきた。
 荒々しい、貪り食べるようなキスにどんどん押し込められ、組み敷かれる。深く合わさる唇はぬるりと舌を蹂躙し、強くレヴンを求めてる。
「ん、んぅ、」

 そういえば、いつだって強く深くこういうことを求めていたのはレヴンだったっけ。…こちらにきてからはあまりこういうことをしなくなってしまったけど、こんなにも自分からでなくカミュから求められたのは初めてのような気がする。

 器用な手つきで外套のベルトを外され、上着の上から触りながらそれも取り払う。素肌の背中にちくちくと麦の穂があたってくすぐったくて、身をよじるのにカミュの手は止まらない。

「前と違って、お前が全然俺に寄り付きもしなくなったのは、きっと色々考えてんだろなって思ってた」

 唇をついばみながら、まっすぐカミュはレヴンを見た。頬には手を添え、でもふとすれば唇が合わさるような距離感だった。

「お前の頭が俺以外の誰かの事でいっぱいになってても、まぁ…」
 言葉尻を濁しながらカミュはそっぽを向いて、頭をかいた。

「いいんだ。まっすぐ尻尾振って喜んでる犬みたいに可愛いお前も、なにか言いようのない苦しみを内に秘めたお前も、変わらない。おれの、大事な、レヴンだから」
「なにそれ…すごい。…愛の告白みたい」
 レヴンは一瞬ぎくりとしたが、それでもすべてわかってくれていながら見守り続けたカミュに胸が熱くなった。
「そうだよ」
 火照る頬を押さえながら言えば、あっけらかんとカミュは言った。
「えっ、」
 面食らったのはレヴンで、じっとカミュを見た。ぶっきらぼうに言うのはいつの飄々とした表情と変わらない、けど。決してレヴンと目を逸らさない真摯さが真剣さを物語っていた。

「好きだ」

 言われた言葉が染み渡るように心に響いてく。苦しい気持ちも、悲しい気持ちも、湧きあがる熱い気持ちに上書きされていきそうで、レヴンはぎゅっと目を瞑ってやり過ごそうとした。
「…そんなの、今まで、言ったことなかったよね」
「お前がいなくなっちまう気がしてたけど、違うんだろ?」
 ああ、そっか。
「…ン」
 恐る恐る目を開けて、ゆっくりレヴンは頷いた。そうだね。はじめの世界で言った言葉は確かに本心で本当だったけど、受け止めていたあっちの世界のカミュが一度も…レヴンが求めない限り自ら言わなかったのはつまり、こういうことだったんだ。
 ほころぶようにカミュは微笑んで、レヴンの頭を優しくなでた。今までのどれよりも優しいキスが唇に降りてきて、胸がきゅんと高鳴った。

「じゃあ、はじめよーぜ」
「?」
 にっこり笑ったカミュは上機嫌で次々とレヴンの服を剥ぎ、自らもまた服を脱ぎ捨てていく。
「愛を確かめるコウイってやつを」

 ゆっくり身体は地面に伏され、覆いかぶさるカミュは優しく愛しくレヴンの身体をまさぐった。体温を分け合ってひとつになってくそのさなか、どこかから仲間の呼ぶ声が聞こえたような気もするけど、すぐ風にかき消えていったのでわからない。ただ、今までのどんな交じり合いより心が満たされたのは確かで、レヴンに覆いかぶさるカミュの身体にいつまでもしがみ付いていたのはまぎれもない事実だった。


 でもあの苦しみも悲しみもなくなったわけじゃない。
 それでも。
 セニカに託した世界の未来が、勇者なんてなくても大丈夫な世界になっていれば。
 同じような苦しみと悲しみを抱きかかえたあの人が、救われた未来になっているはずだと信じて。

「カミュは俺の光だから」
(あの人の光と、わかりあえるように。)
「俺の光ははじめからレヴンだった」
(あの人も…)








2017/9/3 ナミコ