embrace 目を開ければもう見慣れてしまった、しかし自分の部屋ほど慣れてはいない天井があった。白々しいほどに汚れも染み一つない天井の壁紙はおもしろみもなにもなく、ただ無機質にそこに広がっているように感じられた。朝の日がゆるやかに入り込むこの窓はきっと計算し尽くされて建設されたのだろう。穏やかで心地いいけれど、こんなところでは暮らしたくないと思う。 白が基調のシンプルで清潔な部屋に住むのはの憧れだった、今もかわらない。けれどそれにしてはここは無機質すぎ、いっそ冷たさすら感じられ、の心を凪のように無へ導いていった。 この場所は美しく穏やかでなにも不自由しないのに。こぎれいな部屋は新築というわけでもないのにそれと似たような真新しさを醸し出していた。実際は、ここは古くからの洋館であるだろうに。 そうまでして、と思ってからは目を瞑り、大きく深呼吸をしてよろよろと感覚のままならない手足を動かし充分に時間をかけてからやっと起き上がった。 ずくんと重く下腹部に残る違和感には顔をしかめた。熱いお湯に浸かりたい、そう思い、ありのままの肢体を曝したままベッドから抜け出し、おぼつかない足取りでバスルームへ向かった。 しかし自力でバスルームへ辿り着くことはできまいと、は考えた。そうすることができないほど足元がおぼついているわけではなかったし、弱っているわけでもない。これはただの日常茶飯から読み取る慣例的な要素であったから、は当たり前のようにそう思っただけだ。 この部屋と廊下を繋ぐドアの前に立つと必ずあいつはやってくる。 「もっと眠っていればよかったのに」とそいつは笑い、優しい手つきでを抱えあげる。 疲れただろうとこめかみに小さくくちづけを落とし、柔らかく微笑む姿は優しい男そのものだった。というか実際こいつ、トムマールヴォロリドルは掛け値なしにに優しい男だった。甲斐甲斐しくにつきそい世話をし、の望むことなんでもそれを叶えようとした。 始めはささやかだったそれらにも顔をほころばせ喜んだものだ。トムはにとって特別というわけではなかったが、それでも誰かに特別と思われることは嬉しいことでもあった。 ほどなくトムはに思いの内を告げることになるが、はそれを断ることになる。の心はただひとり、名も知れぬ平凡な男のことでいっぱいになっていたからだ。 トムは苦笑いをしながら紳士を装いの手を取った。 それがすべての始まりでトムの奥深底辺にある灰暗い内面を知る初めての瞬間であったのだろう。 ちょうどいいくらいの熱い湯に浸かったは、膝を抱えゆったりと体が温まるのを待った。 その間トムは浴槽の端に腰をかけ、手に取ったシャンプーをの髪に撫で付けては小気味よい音で泡立て髪を洗っていった。優しい指、眠りそうな伏せがちのまぶたはゆらゆらほのかな光を取り込みながらやがてすべてを遮断した。 ひどく欝だった、なにもしたくない。そう思ってしまったらはもう考えることもまぶたを持ち上げ続けることもやめ、浸かった湯槽に吸い込まれるように意識を下に落としていった。 「だからもう少し寝てればって言ったのに」 くすくす笑いは嬉しそうに上からふりそそぎ、のびた腕に抱き留められる感覚を感じた。湯に濡れることを厭わないトムは着衣したまま浴槽に足を入れを支え、丹念に優しく泡を流したあと身体を洗ってやり、浴槽からを引き上げた。 目を開ければまた、あの天井が視界めいっぱいに広がっていた。 本当に、嫌なところ。 目を覚まし、起きて一番初めにあの天井を見るたびにはここが嫌いになり、憎らしささえ感じられていった。ベッド際のサイドテーブルに置かれた白い花瓶とピンクのガーベラ、そう、時折胸の内に巣食う苛立ちと腹立たしさからくる憤怒に癇癪を抑えられなくなるときがあるのだ。ちょうど、今のように。 ピリと音を立てた瞬間吹き上げたのは熱い血のようなものだった。触れたものすべてを燃やし尽くし、破壊し、消してなくなってしまえと叫んでいるような、そんな。 ちょこんと指先が花瓶に触れた、そう思ったらはそれを払いのけ床に叩きつけていた。ガシャンと床に叩きつけられ脆く崩れ去った花瓶のなれのはてを見ると、一瞬凪いだこころは最速でもって最高点の沸点を突き破り後から後からあふれてきた。 沸き上がる熱を発散するように地団駄を踏み、叫び、手当たりしだいにものを投げ、壊す。それでも発散しきれない熱は身体の中心を通り過ぎ、喉までこみあげさらに顔までやってきた。じわり、と視界は潤み、ぼたぼたと涙が零れ落ちていくくせにまだ外へ逃がしきれない。肩を震わせしゃくりあげながらは白い壁を力一杯叩いた。拳は痛みを訴え血すら滲み壁に汚れを作った。 「いや、もういや、いやなのに」 は走り、ドアへ向かった。ここの部屋にある唯一の出口の扉に向かって。 「だして、ここから」 ぐにゃりと空間は歪み、とドアの間の距離を一層離した。遠く歪みに阻まれて、辿り着くこともできない連鎖した瞬間の中でそうあるべきが当然のようにぴたりと手をとられた。慈しむようにそれは手を包む。 「泣かないでよ」 優しい声だった、それがなによりの憤怒の源となった。泣かないでというなら、この手を離し、あのドアの向こうへ行かせてくれたらいい、それだけでいい。いいというのに。 離すはずもなく触れ合った掌は求めるようにに伸び、包まれた。ゆっくり背中と頭を撫でて、あやすように優しい言葉だけをトムは選んだ。 だして、でたい、だして、お願い。 「ねぇ、泣かないでくれ。なんでも願いを叶える、きみを幸せにする。ねぇ、僕をだきしめるだけでいい」 温かな腕は裏腹に縋るような気持ちを内包していた。擦れ声は微かにお願いとつぶやきいっそう胸をしめつけた。憎いのに。 「…ル、アルー…!!」 ああ、この言葉に、名前に、煮えたぎる憤怒を示すのはトムだ。トムはこの名前を一言耳にすると今までの優しさなど嘘だったかのように激情の怒りを噴出する。先ほどまでののように。 初めに頬を平手打ちされ、「あの男の名前を口にするな!!」とさらに二度三度繰り返しぶたれる。まだ拳で殴られることがないのが幸いだ。私はぶたれながらひどく冷静になる。そしてしゃくりあげる暇すら与えずに平手と激しい本心を繰り返し曝け出すトムをじっと見上げるのだ。 忘れろ、オレだけを見ろ、どうして、どうして、どうして、そんなに頑ななんだ、どうして忘れられない はたはたと零れる涙がの赤く腫れた頬にたれる。泣いているのはトムだった、傷つけているのはトムなのに、トムは傷つけることでよりいっそう傷ついていた。 「、きみをあいしている」 泣きながらトムは訴え、腫れた頬に手をあてそれを癒した。 そして「ごめん」とつぶやくとトムは消えた。 床に放り出されたままのは手足を大の字にして天井を見た。相変わらず染み一つない天井だけど、なぜだかそれを見るとどこか払拭したような妙に晴れ晴れしい気分にもなった。いつもの自分の考えとは正反対では素直に驚いていた。 トムがを戒め繋げるように、は唯一トムの首に手をかける者だ。戒めれば戒めるほど力を強め、食い込むように締めあげる。 きっといつか死ぬんじゃないかと思った。 求めすぎ、拒みすぎ、噛み合わないごとに締め付ける指の強さにいつか、きづいたときは、もう。 だから逃げ道を残しておく。 知っている。 あのドアは、ずっと。 鍵などかかっておらず、いつだってでられる。そっとドアノブに触れれば、簡単に開く見せ掛けのような扉。黙って、そっとでてゆけばいいのだ、トムは気付かない振りをして悲しそうに見ているだけで。 涙を零しそうに切なげに、息も絶え絶えになるくらい辛そうに、でも、どうしようもないというみたいに、悲しそうに。 ああ、なんでそんなトムの表情を知っているのだろうかと、はおぼろな頭で考えた。 いつ、いつ見たというのか。知っていたとでも言うのか。まさか。 ちらりと視界の端にドアが映る。 鍵のないドア。いつでも出入りできるドア。知っているのに声をあげてドアに近づく。あげた声を聞かないかぎり気付かぬふりをするトム。 大切な、なにかを忘れているような気がした。 は立ち上がりそっとドアに手をかけた。開いているのに開けないドア、本当はいつでも開けるドア、声をあげるのは向こうへ行くという意思表示。行くよ、行くから、だから止めてと、そう言っているようなものだ。 ……そうか、止めてほしかったのか。 言うなればこのドアは、のあかずの扉だろう。このドアの向こうになにがあるのか、きっとトムは知っている。知っているんだ。 静かに静かに扉は開く。心の半分は期待と未知へ対する恐れで身体を強張らせ、もう半分の心はやめろやめろと叫んでいた。 心の奥底、蓋をされた半分の心はおそらく何かを知っているのだろう、それだけでない、本能もまた、それはダメだと言っていた。しかしそれでも、それでもと身体は前へ進むのだ。 一歩、前へ踏み出す足はドアを越える。トムは、あのなんともいえないような顔をして見ているのだろうか。 ずんと大地を踏む。を守る白い家は光となって収束し、その胸のうちへ消えた。かたくを守っていたものはの手により取り払われたのだ。記憶はとめどなく降る雨となり、その身に降り注ぐことを知っているか。取り払われた屋根はもう雨露からを守れない。都会の雨は酸を含み、命あるものを殺していくのに。 じわじわこみあげ滲む涙。そう、忘れてしまいたかったのだと、は思い出した。 アルはを裏切った。に愛を囁いたくせに本当の愛じゃないとせせら笑う。アルには年下のフィアンセがいた。昔からの、旧家の正しい血を受け継ぐ子が。後ろ姿が少し似ていただけと言った顔が忘れられない。なんでもないような顔をして、呼吸をするくらい自然に彼は言った。 の手はそっとトムと繋がっていた。だからトムを巻き込んだ。記憶の渦に閉じ込めて、知らないままでいたかった。全部トムのせいにして。 でももう知ってしまった。忘れたかったことを自らの手で開け放ってしまった。 人間は、なんて愚かな生きものだろうか。 好奇心に自らを滅ぼすのだ。固く滅びを拒んでいたくせに、手招き寄せて――――……。 は泣いた。声をあげて泣いた。ごめんなさいを繰り返しながらなんどもしゃくり上げ、肺がおかしくなるくらい泣いた。 それでも雨は止まなかった。雨はしとしと降り注ぎ、の上を滑っていった。 泣き濡れたきみに、酸性雨をすこしずつ、銀のじょうろでかけてあげよう。 すこしずつ、すこしずつ、そうして全部溶けたころ、いらないものだけ掬いだしてまた君を守ってあげる。 棄てたものはやがてまた雨となって君に降り注ごうとするだろうけど、僕のこのローブが優しく包んで耳元を覆い隠してあげるよ。 ずっとずっと、いつまでも。 幾度繰り返しても、永遠の時間はこの手にあるから、ずっと離れない。 それで、いい。 そしていつか、ふたりの世界が壊れるまで。 7月は少し余裕ができるので更新もできそうです。たぶん。 2005/7/3 アラナミ |