さよなら青い鳥 







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「先生、」

 が一言しゃべるたびに彼女の背中に残った片翼はどんどん大きくなっていった。羽根は抜けても抜けても次々生えてくるようで、尽きることはなさそうだ。
 灰色だった羽根は生え変わるごとに色を薄めていった。
 
 最初の翼は灰色から青くなった。もう片方の翼は何色になるのだ。
 何色になるのかなど、最初から予想はついていた。
 
 白、純白、白、

 その純粋すぎる色を我輩はなんと呼んで良いのかわからない。「白」としか形容できない自分の語彙の貧困さに腹が立つ。

 部屋は吹雪の吹き荒れる雪山のように、透明なガラスのなかのスノードームのように、舞う羽根が多すぎての顔が見えない。自分の体すらもう見えない。見えるものはただ真っ白い羽根ばかり、この純粋すぎてすぐに汚れてしまいそうな色をなんと表現して良いのか我輩にはわからない。

「もっと単純な事です」
 
 いますぐにこの部屋から出て行きたい。部屋を出て、扉を完全に封鎖する。かんぬきをかけて釘で打つ。危険、立ち入り禁止の札を立てる。ゾンビの大群の襲撃から家を守るホラー映画のように、台風の被害を受けないように、爆風で窓ガラスが割れてしまわないようにすべての窓を塞いでしまいたい。
 その封鎖された光すら入らない部屋の中でもは羽根を散らしつづけるのだろうか。
 きっとそうだ。そして自らの羽で部屋が満たされる。呼吸するたびに肺の中までも羽根の繊維で埋まる。まばたきをするたびに潤んだ眼球に羽根の繊維が張り付く。口の中に羽根の繊維が詰め込まれる。そして傷口からも羽根の繊維は体内に入り込む。細い細い繊維は毛細血管の中までも流れ、脳に到達する。彼女は窒息する。彼女は窒息して死ぬ。彼女は死ぬ。
 そのとき、我輩は部屋の外で何を思うのか。 

「たしかに、そういう心理が私の中ではたらいてるのかもしれませんけど、私が先生に言いたいことはもっと単純なことなんです」

 頭の中で生徒が死ぬ場面を想像している間にも羽根は部屋につもり、今ではくるぶしのあたりまで羽根で埋まっている。は一度も目線を外すことなく、瞬きすらしていないのではないかと思うほどこちらを見つづけている。我輩の目を。
 苦しくて息ができない。脳に送り込まれる酸素が足りない。理性的に正しく物を考えることができない。
 綿雪のように舞う羽は、彼が死んでいる事を発見した朝の雪に似ていた。
 
「先生」

 は落ち着いた声で言った。

「好きになりました。だから、仲良くしてください」
 

 我輩の世界は崩れた。
 のその言葉をきっかけに、文字どおり足もとから崩れていったのだ。部屋の中に深々と積もっていた真っ白い羽根はどこかへ吹き飛ばされ、あとかたもない。
 しかし部屋の中が急に明るくなったような気がする。部屋の照明は古めかしいランプ、消えないロウソク。いつもと変わらないはずの部屋は、晴れた冬の日のように白く見える。薄く積もった白い雪は太陽の光を反射する。溶けかけて透明なガラスのような雪は光る。
 そうだ、の羽根の色は雪の色だ。誰にもまだ踏まれていない、薄く積もった雪の白さだ。

 はやわらかく微笑んでいる。返答を急かすでもなく、部屋に流れる時間そのものを慈しんでいるような表情だ。

 時間。休み時間や食事の時など、大量の生徒を見ていていつも思う。
 なぜ彼らはあんなに急いているのだろうか。若い彼らに残された時間はまだ限りなくあるはずなのに、人生の時間を半分以上消費してしまった我々教師よりも、時間がすぎることに我慢がならないように見える。
 我々がぼんやりとマッシュポテトや野菜の切れ端を眺めているあいだ、彼らは食事をできるだけ早く胃へかき込もうとしている。少しでも早くホールから出て行きたいようだ。
 たぶん、時間の密度が違うのだろう。我輩は、もうそのような時間の感じ方など忘れてしまった。


 “好きになった、だから仲良くして欲しい。”

 なぜは、自分の感情をこんなにシンプルな言葉で表現しきることができるのだろう。我輩はどれだけ言葉をこねくり回しても、一度だって伝えたい事を正確に伝えられたことがない。
 自分が純粋だった頃の気分など忘れてしまった。

「しかし、仲良くと言っても、我輩は教師という立場から離れて物を考えることが出来ない。それは無理だ」
 我輩の指先が震えている。それはなぜだ。

「先生、もう資格とか立場とかは考えなくてもいいんじゃないんですか。きっと誰にも、資格なんてものはないんだと思います」
 は立ち上がり、我輩のすぐそばに真正面に立ち、我輩を見上げる。
「私は先生の事を“先生”と呼びますけど、それはただの地図記号みたいに先生を呼称するためのもので、化学式や成分表のように内面を分析したものではないんです」
 ゆっくりとはそれだけ言うと、くすくすと笑いを漏らした。
「こんなに単純なことなのに、どうして結論へこんなに遠回りしなくちゃいけないんでしょうね」

「……それが大人と言うものだ」
 “大人”という陳腐な単語がすべりでた。我輩は、彼女のように笑うことなどできない。それどころかうまく言葉を選ぶことも出来ない。
「……物事を理解して、安全を確認してからではないと不安なんだ。予備知識無しに未知のものへ接触するなど出来ない。我輩は失敗して、物事を最初からやり直すにはいささか年を取りすぎている」
 こんな事を生徒に向かってしゃべるべきではないと頭の中ではわかっていた。しかし一度すべりだした舌は止まることは無く、ただただ言葉が口の端から漏れるばかりだ。
 はそれを黙って聞いていた。適切な個所でうなずいたり小さくあいずちをうったり、まるで彼女のほうが完成された大人のような反応だった。

「それに、失敗したあとに最初からまた始められるとはかぎらない。マイナスの位置まで落ちてしまうこともありえるのだ」
 の言うことにくらべて、我輩の言っていることはどうも的外れなような気がしてならない。地球を旋回する軌道から離れてしまって、二度と地球から見ることの出来なくなった衛星とはこのような気分なのだろうか。

 衛星、地球、軌道、それらは今の状況とはまったく関係ない。……我輩は、必要以上に遠回りしているようだ。なぜ結論を出してしまうことを避けているのか。それは真実に気づいてしまうことが怖いからだ。

 結局、人は自分の本質というものに気づいてしまうことが怖いのだ。
 しっかりと握り締めた手を開かない理由は、中のものが零れ落ちてしまうことが怖いのだ。自分が必死に握り締めているものがたいしたものではないことに気づきたくないのだ。
 自分の価値がどれだけのものかを知ってしまうことが怖いのだ。
 自分が本当はどう思っているかを知ってしまうことが怖いのだ。
 本当はとっくに、自分はたいした人間ではないということを知っているのに。


「先生、私は先生のことが好きです」

 が我輩の手に触れる。
 おそるおそる控えめにのばされた手の指はエナメル素材でコートされてはいない爪で、寝不足のせいか少し薄く、夢の中の彼女のように、表面はつややかと光ってはいなかった。そして指先は水を固めたように、ひんやりしていた。氷という表現では行き過ぎていて、水という表現では足りない。
 我輩はその手を受け入れる自信がなく、ただ直立不動のまま昔の事を思い出していた。






 

2004/11/10       トラ