05
「さて、と」
気を取り直してはステージ中央に空いた穴に近寄り、中を覗き込む。
「ふたりとも、だいじょ………」
言葉を遮るように突如、下から噴きあがる勢いで机やらイスやらが飛び出す。重量のあるそれらを避ける為は身構えたが、次に飛び出た猫の大群に大きく悲鳴をあげる羽目となった。
「きゃー!きゃー!!ぎゃー!!!」
「、乱馬の様子が…!」
猫柱さながら噴き上げるその様は見ていて壮観でもあるが、目に入るのは猫、猫、猫…と虎一匹。なみだ目を浮かべて腰すら抜かしてしまったに、あかねの声は届かなかった。けれどぼとぼとと落ちていく猫の中にいくつものカンナ屑を見て、は「しまった」と、抜けた腰に活を入れつつ慌ててステージ脇の緞帳に身を隠した。
体育館の中は大して人もいない筈だがざわめきは大きく、乱馬を中心に騒がしさは増しているようだった。緞帳の脇から伺うように周りを見れば、床じゅうに広がったカンナ屑が雪のように積もっていた。
「乱馬!」
あかねが大きく乱馬を呼んだけれど、声は届かず乱馬は九能が放った木刀を追いかけ外へと飛び出した。どこか楽しげな様子の背中を見送り、とりあえずはひと安心だと、は身を隠していた緞帳から抜け出る。
「、乱馬が…」
それを見つけたあかねは焦った様子で駆け寄って来た。は呼吸を整え、スカートについた埃を手で払ってそれから口を開いた。
「うん、猫になっちゃったのよ」
「えぇ?」
「乱馬が、猫に」
「えーっと…待って、。唐突過ぎて意味が分からない」
眉間に皺を寄せ、わけがわからないという表情をしてみせたあかねを連れ、は外へ出て行った乱馬をこっそり追い掛ける。グラウンド脇の木の上に乗っかり顔を洗っている乱馬を遠目で確認しつつ、はそこでぴたりと足を止めた。
「猫みたいでしょ」
「みたいでしょって、なんではなにもしないの!?」
「……………」
責めるように飛び出すあかねの言葉は痛いほどの心に突き刺さってきた。けれど、はなにも答えられずただ黙ることしか出来なかった。
「ったら!」
「そうを責めないでやってくれ、あかねくん」
「おじさま…」
自然に会話に入り込む玄馬に違和感を覚えるのはだけだろうか。庇ってくれたように聞こえたが、普段スチャラカな分いまいちありがたみが湧いてこない。…いやいやいや!てゆうか、元はと言えばの原因を作ったのは玄馬でもあるのだからありがたみもなにもないような気がするが。
「乱馬、どうしちゃったんですか?」
「ああなった乱馬には言葉は通じん。猫に対する恐怖が極限に達すると、恐怖から逃れるために自ら猫になりきってしまうのだ」
「それとこれとがどういう関係が?」
ふっ・と、は自嘲する。半ば諦めにも似た虚ろな表情でため息を漏らしつつこういった。
「ああなった乱馬を取り押さえられるのは、近所に住んでいたおばーちゃんだけ。…それでもってああなった乱馬にじゃれつかれて追いかけられるのは………いっっっっっっっつも私」
言葉を噛み締めながら、は未だ鮮明に残るトラウマ級の記憶を思い起こす。猫の鳴き声を彷彿とさせる乱馬の擬声から始まる、あれは恐怖の時間だった。
そもそも、初めにが抱いた猫に対する感情は、未知への恐怖だった。お兄ちゃん然としていつもを引っ張っている乱馬があれほど怖がる猫という存在とは!きっと出会い頭に噛み付かれたり、引っかかれたり、食べられたりしちゃうんだ!と、子供の想像力さながら有り得ない想像に恐れ慄いていたのだけれど、いざ猫と対峙してみれば思ってみたよりは怖くなく、むしろふわふわ可愛い。……などと安易に思って乱馬に猫を突き出したのがまずかった。
の手前、強がって逃げ出さなかった乱馬は焦点の合わない目で「はははは」と乾いた笑いを発し、が手にした猫を受け取った。そうして猫がやせ我慢に震える乱馬に顔を擦り寄せると、乱馬はいよいよ「にゃ〜ご」と鳴いて、に飛び掛かった。まるで子猫がじゃれてるようだな・と、大人は微笑ましげに笑って見ていたが、にとっては冗談ではなかった。自分と同じ身体の大きさの、けれども力は強い乱馬が全力本気でじゃれついてくるのだ。
押し潰されれば起きれない、逃げればしつこく追い掛けられる、じゃれつかれて噛みつかれては引っかかれ……それらが以下エンドレス。ともなれば、逃げて泣いて喚いて取り返しがつかなくなると、近所のおばーちゃんがやって来て乱馬を膝の上でおとなしくさせてくれたっけ。ああ懐かしい、思い出したら涙が滲んできちゃったよ。
とどのつまりは、猫が苦手というより猫化しちゃった乱馬が苦手。問答無用に本気でじゃれつく乱馬が怖いから、そうさせるべく猫が怖い。
「ああなった乱馬はわしでも手に負えんからのう。…まあ、おのずとも猫が嫌いになるわな」
「へー……いいじゃない、じゃれつかれるぐらい」
「あかねはあの執拗さを知らないからっ……!」
綿帽子並みの軽さでのトラウマを受け流したあかねに、思わず抗議する。転んだ痛みは転んだ人にしか分からないって言うけれども、まさにそれ同様の伝わらないもどかしさをは抱えた。
「百聞は一見にしかずじゃ、それ!」
「きゃ、あぁぁぁぁぁぁ〜ッ」
ぐるりと一瞬にして視界の天地はひっくり返り、虚を突かれて玄馬に投げ飛ばされたのだとは気付く。なだらかに大きく曲線を描きながら勢いのままに飛ばされて、遠くなっていくあかねと玄馬を見ながらはじたばたと手足を大きく動かしたが、飛ぶ勢いが相殺されることはなかった。
「ふざけんなー!ばかー!」
悪態をつきつつ、空中でくるり・と、半回転したはだんだんと乱馬へ近付いて行っていることに青褪めた。木の上で爪を研いでいる乱馬はまだこちらには気が付いていない様子だ。それならばまだ希望はある・と、は心を落ち着けて精神を統一させた。
たぶんこのまま行けば、着地地点は……乱馬のいる木のすぐ根元だろう。気付かれないうちにさっさと逃げるしかない。
「よし!」
ぱん・と、掌を合わせて、それからはきれいに地面に着地した。勢い余ったせいで地面を擦った靴から砂埃が上がり、ヤバイかも、思ったときに乱馬と目が合った。しまった、と思うよりも早くは走り出したが、嬉々とした表情でもって乱馬はを追いかけ始める。
「まるで猫がネズミを追うような…」
集まる群衆のどこかで誰かが呟いた例えは、絶妙に的を得ていたように思う。
「こないでー!」
大きく叫びながらはグラウンドを走り回ったが、後ろから追いかける乱馬はとても楽しそうで目を凝らしてよく見れば、周りに黄色い音符が見えそうな雰囲気だった。
逃げれば逃げるほど捕まえたくなるのが狩りの本能、即ち動物の本能だろうに、けれどはそんなことは頭に入っていない。ついにの背中に飛び掛かった乱馬は、かぷりと首筋に歯を立て尻尾……はなかったのでみつあみを揺らした。猫に捕まった獲物のごとく、身動きの取れないは泣き出しそうな気持ちで声にならない泣き声をあげた。
「ふぇぇぇえん」
噛み付く力は甘噛み程度だったが、いかんせん執拗だ。きっと後にはうっすらと鬱血してしまうだろう。抗うの頭に手を乗せて動きを封じる乱馬はまさに無邪気に凶悪、それに尽きた。
「!おじさま、早くそのおばあさんを連れて来てください!」
「それには及ばん!わしがなんとかする」
頼もしく聞こえる言葉に誰もがほっとした気持ちを抱いたに違いない。すぐさま大地を蹴った玄馬は力強く跳躍し、の首根っこにかじりつく乱馬の前に降り立った。玄馬が目の前に飛び出たとき、涙目で恐怖と痛みに包まれていたは、またそれとは違う恐怖を抱かざるを得なかった。…だけではなく、恐らくその場にいた全員が背中に悪寒を感じただろう、現に楽しげにの首根っこ噛り付いていた乱馬は目を吊り上げ、毛を逆立て、最大限に威嚇するように玄馬へ唸り声を上げている。
「ほーれほれほれ」
ぱたぱたと猫じゃらしを揺らす玄馬のいでたちは恐ろしいほど異様で気分を害するものだった。ひりひりする首筋を手で押さえつつ身を起こしたは、乱馬と玄馬に視線を彷徨わせた。まるで火に油を注いだかのごとく激しく唸り声を上げた乱馬は、さきほどへじゃれついたときとは比べ物にならないほどの力強さとスピードで土埃をあげ、玄馬に飛び掛った。土埃の中心では激しい鳴き声となにかを引っかく音が聞こえ、それからケチョンケチョンにされた玄馬がぐしゃりと地面に叩きつけられ、気を失っていた。
「そりゃあ怯えるってば」
いまだおさまらない鳥肌をなでつつは、あの頃近所に住んでいたおばあちゃんの扮装をしたつもりであろう玄馬を呆れ顔で見た。乱馬の気を逸らしてくれたことは素直に感謝するけれど、その扮装ゆえの今の事態には同情はしない。
じゃれつかれたショックでまだ覚束ない足取りで、は立ち上がる。
「乱馬ぁ、あかねぇ…」
逃げるように離れていった乱馬を既にあかねは追いかけていた。木の上のほうに身を丸めている乱馬を、その下であかねが険しい顔をして見ている。なかなか近付くにも時間のかかるもので、が一歩一歩大地を踏みしめているうちに、あかねは乱馬へ向かってなにかを飛ばしたようだった。大きな風呂敷に包まれた―――なにかは分からない物。それを弾いた乱馬は、中からばら撒かれるように出た細かい粒―――マタタビだろうか―――に、くらりと目を回してそれから喉を鳴らした。先程めがけてじゃれついたときと同様、けれども相手は無差別に、乱馬は目に付いた生徒達を追い掛け回す。
「あぶない、あかね!」
生徒達の人だかりの向こうで、誰かがそう叫んだのを聞いた。動きにくい足を叱咤し、は生徒達をかきわけ乱馬とあかねの元へと向かう。
噛み付かれてはいないか、引っ掻かれてはいないか。あかねが同様にトラウマになったりしないか心配で、必死になっては中心へと進んだが、そこで見たものは呆気に取られるほど呑気なもので、あかねの膝の上、ごろごろ喉を鳴らす乱馬は大人しく身を丸めていた。
「すっご〜い、あかね。やっぱり許婚になついてんのね」
「そっ、そんなんじゃないわよっ」
騒ぎもこれでひと段落か、クラスメイトの感嘆の声聴きながら、は「ははは…」と乾いた笑い声を上げ、その場に腰を落として座り込んだ。
「心配して損した」
完全に抜けてしまった腰はしばらくの間動かすことはできなさそうだった。茶化されるように囃し立てられるあかねをぼーっと見ていると、事件は起きた。
「さっさと降りなさいよ!」
なんて怒るあかねの顔に近付いた乱馬は無邪気か、はたまた本能的に、あかねの唇に顔を寄せた。
一瞬時間が止まったように感じられたのは、だけじゃないと思う。瞬きをするような間の出来事の筈なのに、ゆっくり時間が流れていくようにも感じた。目を見開いた以上に目を開いていたのはあかねで、見る見る間に赤くその顔は火照っていった。止まったまま動かない表情は、あかねの感情を読み取ることが出来ない。
「キスした…」
「キスしたっ!」
再びざわめく生徒達の前で、あかねの眉間に皺が寄せられていった。怒っているのか、それとも困っているのか。ふるふると身体を振るわせたあかねは大きく「バカーっ!」と乱馬を殴り飛ばし、それからひとりさっさと帰ってしまった。腰を抜かしたを残して。
乱馬とあかね、二人をなくすとすっかり興味も失せたようで、生徒達は方々へと散っていった。寂しく虚しく人のいなくなったグラウンドに風が吹く。
「誰か……」
呟きは寂しく風に流れていった。いまだ足に力の入らないはひとつため息をつき、まだ地面に伏したままの玄馬の意識が早く戻ることを願った。
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2011/4/17 ナミコ