優しくすることが誰かを傷つけるなんて、思いもしなかった。








 その優しさをすべての人に与えるなら 1










努めて誰にも平等に隔てなく優しさを振り分ける。当たり障りなく、棘が立つことのないよう、柔らかい膜に覆うように、包むように、他人と接触するのだ。人間とは、かくも愚かで賢しい生き物だ。目には目を、歯には歯を、というハンムラビ法典の教えを本能的に悟っている。好意には好意、敵意には敵意で返す純粋さを心から愛しく思う。私は人に好意を示すことで返って来る"好き"という感情に頬を寄せ、私に向けられる全ての敵意に対して"無"を抱く。

それですべてが滞りなくうまくいくと思っていた。





どうして優しくするの?

泣き濡れし頬。ハンカチを差し出す手。彼女はそれを受け取り、涙を拭き、ただありがとうと言えばよかったのだ。ただ優しくするという目的だけにハンカチを差し出した彼に、ありがとうと言えばよかったのだ。それはもしも私たちに期待というものがなく、心というものがなく、種族を繁栄させる動物ではなく、人間でなく、性別というものがなく、男でもなく、女でもない、他の何者でもない、まったく同等の固体であったとすればよかったのかもしれない。

私は貴方に優しくされるから、悲しいのに。

なぜ、と彼は思った。その反対で、悟ってしまうように理解してしまったというのに、それを頑なに奥底へ沈ませて知らないふりをする。

私、貴方が好き。

彼も彼女が好きだった。だけど、彼女の言う好きとは異なる形の好きという感情だ。親愛からくる情の、家族や友人に向ける好き。だけれど今彼の目の前にいる彼女は、彼が彼女に抱く好きとはまったく異なる好きを彼に抱いているのだ。同質の、けれども異質な。ぐにゃりと胃が空に浮くような感覚をいささか覚える。彼は困ったように首を傾げた。それだけで彼女は息を呑み、大きな瞳から止め処もなく涙を溢れさせる。

好きじゃないなら、優しくしないでっ

涙を流して走り出す彼女を止めることはできなかった。中途半端に伸ばした手は空にとどまるばかりで虚しさをより大きく際立たせた。優しくすることだけが、決していいことではない。そう思っても、彼は結局誰にでも優しいし、それをやめることはできない。
そうしないことは、彼に取って世界に対する恐怖をありのままに曝け出すことになったはずだ。優しさは彼の心を包む硬い鎧だ。まるでなにかを贖うように彼は手を差し伸べる。そうすることで情を手に入れようとする。まるで決して離れることのないものを無意識に探すように。





ゆらり、とセピアの憧憬は揺れる。覚醒した頭を緩やかに振り、深い深呼吸をした。
記憶の篩をまた、探り当ててしまった。懐かしい夢を見てしまった、と思う反面、また見てしまった、とも思う。あのときのことは、今でも鮮明に心に残っている。

私を好きだといった彼女を、優しくしないでと言った彼女を、優しさに悲しんだ彼女を。…私は彼女を好きだったのだろうか。
まさか、と思う。彼女はずいぶん昔に結婚したと聞いた。優しい夫に、2人の子供に恵まれ、幸せに暮らしていると。幸せなことはいいことだ。私は彼女を心から祝福できる。


「リーマス、リーマスルーピン」
コンコンと、ドアをノックする音が聞こえる。「なんだい」「マクゴナガル教授から、引継ぎの書類を預かってきたわ」
ああ、きっと去年の授業内容についての報告書だろう。それを読んで、明日からの授業を考えなくてはならない。
「わざわざすまないね」書類を受け取るために自ら立ち上がりドアを開ける。
「構わないわ。これがその書類――――、学年ごとにまとめてあるそうよ」
バサリ、と書類を手渡される。(なんて分厚い紙の束だ、おそろしい)
――――彼女は数年前からここで教鞭を振るうかつての親友だった。正義感溢れる、礼儀正しい、立ち居振る舞い勉学なにもかもそつなくこなす人で、まさにグリフィンドールの名を抱くに相応しい人だった。快活で明朗、さっぱりとしていていっそ気持ちがいいくらいの彼女の気性に私たちは夢中になった――――それはもちろん、友人としてだが。

「ありがとう、
「いいえ、新任おめでとうリーマス。久しぶりね」
にこりと彼女は笑った。私もにこりと笑顔を返す「本当に」
積もる話はあれど、いまだ散らかる室内を一瞥し、は小さく肩をすくめた。「相変わらず散らかってるわね」「すぐ片付けるさ」「学生時代は片付いていたときなんてあったの?」「あれは片付けた傍から散らかす奴らがいたからね」「そうだったわね」
なにげない言葉さえ過去の思い出は盛り込まれ、それだけでもう積もりかけた話へと形成されていく。
「また来るわ」
チョコレートを持ってね、とは笑った。リーマスは手を振り帰るの背中を見送り、それから杖を振った。

「さて、ずいぶんな量だ。少なくとも、明日授業のある学年のぶんだけでも目を通さなくてはいけないね」
ドアは小さな音を残して閉まり、彼にやるべき仕事を与えた。
ランプの光は煌々と揺れ、室内にあたたかい光をもたらし続けた。




これはリーマスルーピン教授がホグワーツ魔法魔術学校に就任した、一日目の夜のことである。









 
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長らくお待たせしました。
連載の始まりですよ!!

2004/12/7   アラナミ