蒼褪めてくちなしよ







休日のその日、が待ち続けるドアは少しとも開かれず、薔薇は瑞々しさを失いながら萎びていった。
美しさもなにも失ってゆくそれは次第に塵屑へと認識されていくのだろうか。
だけれどがそれから目を離さない限り、完璧な仕事をこなそうとするしもべ妖精はそれを片付けようとは思わないはずだ。
あれはにとってまだ価値のあるものだ……あの人の変わらない日常を見届けるための。
けれど変わらぬ日常を確かめるための薔薇であるが、あの人の部屋のドアがいつも開かれる時間を通り越してもいまだぴくりとも動くことがないというところを見るともう既ににとっては変わってしまったあの人の日常を見てしまったことになる。
昨日と寸分変わらぬ日常を見届けるはずであったのに、まったくそれを見届けることなく知ってしまったことには少しばかりの不安を得る。

もう二度と来るなと言われた扉の向こうで、あの人は一体どうしているのだろうか。
分厚いながらもたった一枚の木の板を隔てて向こう側にあの人はいるというのに、隔てるものがあるというだけでなんて遠いことなのだろうか。
手を伸ばして、ドアノブを回し、足を踏み入れればいいだけなのだ。ただ、ほんの少しだけの勇気がないだけだ、グリフィンドールのように。
スリザリンであるはどうしても勇気を振り絞れず、そうせざるを得ない為の言い訳と条件を考えている。

質問があったといえばいいだろうか―――誰か他の教師にことづけを頼まれたといえばいいのだろうか―――それともあの人を訪ねていく誰かの付き添いになっていけばいいだろうか―――。
でも、は確かめたいことがあるのだ。いや、確かめたいことが湧き上がってしまったのだ。
変わらぬ日常を毎日違うことなく繰り返す律儀で神経質で几帳面なあの人が、今日に限ってどうしてかと。
まさか動けなくなってしまったわけではないと思うけれど、一度思い浮かべてしまった妄想にも似た思考は掻き消そうとしてもなかなか頭から消え去らないものなのだ。

だからふいに何度も何度もあの人に抱かれたその夜に見る夢を思い出してしまったのだ。
冷たい手、冷たい指先、不健康な白い肌。生きているのか死んでいるのか。
暗闇に溶け込んだ、漆黒の黒髪、黒い瞳、闇をそのままうつしたように似つかわしくもなく、また似つかわしい姿。
腹の底からわきあがるように震えが頭へと駆け巡った。憤怒に似た恐れ、悲しみ、危惧。
手に汗をかき、指先は震えるくせにいまだにそのドアを開く勇気を持てない自分自身にひどい憤りを感じるのに。
もしも闇色の瞳が白く濁り、なにも映していなかったら。
閉じられたまま、開かれることがなかったら。
これはただの妄想であり、杞憂である。あの果てしなく続く空を見上げた人が、いつか空が崩れてくるのではないかと恐れたような、ただの杞憂……きっと。

それなのに、

は杞憂に恐れ、ドアを開けることに手を震わせる。
臆病でとてもちっぽけだった。



だからはちっぽけな自分の涙一粒と引き換えにひとかけの勇気を手にする覚悟を決める。
二度と来るなと言われた言葉をただ従順に守り続けることもできた、きっと。
凪いだ海のように想いを収めてそれでも繰り返し繰り返す波は消えることはなく生み出ては足元へ寄せるのだ。想いは定まらず、形もなく、溢れるものだと知っていた筈なのに。

そっと指先で触れたドアノブは、まるであの冷たい手のようで。の熱を奪っていく。

静かに開いた部屋は、変わらず無機質な日常を彷彿とさせるものだった。
机の上にはきちんと添削されたレポートの山が整理され、必要最低限のものだけが摂り揃われ、微かな薬品の匂いが漂う薬棚、チリひとつ見当たらない、ほこりひとつみかけない、きれい過ぎる部屋。
完璧すぎる静寂の部屋の一番奥には、この部屋に似つかわしくないほどに寝乱れたベッドが。そのベッドに、あの人が横たわっていて。

夢で見た光景と、同じ。
は震える足と手を叱咤して、ゆっくりと近づいていった。



あの夢では、あの人はとても冷たい手をしている。体温の、まったくない手を。
は手を伸ばす。そしてゆっくりとその手に触れればいいだけなのに、震える手はどこまでもゆっくりと焦れて触れることをためらった。
すぐそこにある、たかが数センチ先のものに触れるだけなのにどうしここまでうろたえなくてはならない。
たとえ冷たくとも、そうであったのならわけてやればいいのだ、自身の体温を。不健康な白い肌にの肌の色をうつして、闇と夜にとけこんで眠るようにすべてを分け与えて。
意を決し、腫れ物を触るように手を伸ばした手のひらのヒヤリとした冷たさに、背筋がぞくりと震える。

一瞬思考は真っ白に飛び、いささか混乱しながらも繰り返して手のひら撫でた。
この人の手の温度は、自分より低いから―――だから、きっと。
だから肌も白いし、指先も冷たく、不健康な色をしている、それだけ。
撫でた箇所が温かくの温度を少しばかり奪っていった。他の箇所と少しだけ温度が違っていたから。
そのままはこの人を見つめる……黒髪黒目、白い肌。

せんせい、と呼んでも、この人は反応を示してくれるだろうか。

たとえこの人を呼んだとしても、応えなど返ってこないのではないだろうか。確証などないのではないのだろうか。
猜疑と危惧はひっきりなしに繰り返しての胸に訪れる。
だからはただ心からの安堵を求め、そっとその胸の上に頭をもたれかけた。
生きる証の鼓動を聞き取るために、あの夢と全く同じことをはするのだ。

生きていますか?


口に出せない不安の気持ちを胃の中に押し込んで、は耳を傾けた。
それと同時に素早く伸びた白い手がをこの人から引き剥がし、乱暴に距離を置かれた。
勢いによってふらついた足は正常に地に足をつけることが敵わず、まるで千鳥のように行き場を失った。軽い音と共に後ろのめりに転ぶ――――はしりもちをつく。
鋭い黒の眼が忌々しそうにを睨めつけた。
「もう二度とここへ来るなと言った筈だ」
白い肌の頬が赤黒くなっていくのを見て、はこの人がどれほど憤怒しているかを知った。
「だって……」
それでも言わずにはいられないことがにはあった。猜疑と危惧ののちに安堵が訪れ、それは無意識に形となって現れたけれど、の知るところではなかった。少なくとも今この瞬間は。
「こわかった」
口にすると視界はぐにゃりと滲んで見えなくなった、いや、わからなくなった。昂っていく感情と共に冷静な自分自身が目覚めてまるで第三者のように見つめているのを頭の片隅では感じた。
ぽとり、と思いのほか重たい音を立ててスカートに染みを作るものはあふれ出た感情そのもののようで、落ちるたび落ちるたび胸が打ちひしがれた。
「とても、こわかった」
しっかりと声は出るくせに手も指も身体もすべて震えていた。憎むように咎める眼がこちらを見ているのだと思ったらそれだけで死んでしまいそうに辛くなった。
「死んでいるのかと、思った」

「莫迦な……我輩を侮辱しているのか?」
この人の言葉にはいいえと首を振る。違う、違うのだ。そういうことじゃない。
「先生はいつも希薄で、いつも全てに対して蔑んで、憎んでいた」
この人の黒の目はなおも鋭くきつくを睨みつけるけれど、ぼやけた視界ではそれを確認することができない。けれど確認なんてしなくていいのだ。そのまま言葉を続けて、は伝えればいい。そうでなくてはの言葉は詰まり、全てを伝えることなどできないのだから。
「憎んで、憎まれることでしか世界に繋ぎとどまることができないようで」
「ほう、詭弁だな。よくもまあそのような妄想に取り憑かれたものだ」
鼻先で見下ろすようにこの人は笑い、罵詈雑言を浴びせる。言葉ひとつひとつはとても辛辣で、そのまま受け止めてしまったらきっと心は擦り切れて死んでしまうかもしれない。
ああ、でも詭弁は――――この人も同じなのではないのだろうかとは思った。人の感情に正論も何もあるだろうか、すべて水掛け論で本当のことなどは計り知れない。
だったら探りあいの詭弁などは放っておいて真実だけを伝えればいのではないか。すべてではなくてもいい、ただ真実だけを。心から思った言葉を、伝えて。

「好きです」

「私、先生が好き」


黒髪黒目のこの人は、の言葉に白い肌を蒼褪めて言葉をなくした。









 

2004/10/26  アラナミ