「かすみさん…?」


 きょととあかねを見た。東風先生はかすみおねえちゃんが好き、と言う言葉はあまりに自然にあかねの口から零れ出て不思議だった。東風先生を好きなあかねが言うにはあんまりに自然すぎて、不自然。あかねはどれくらい長い間先生を思ってたんだろうか。私だったら―――嫌、そんなのみとめたくなーいって喚いて諦めないでガンガン行っちゃうだけど、な。


「みんななにしてるんだい?」
「えっ、いや、別に」


 口を噤んでしまったあかねの、その、どれくらい長い間かっていうものは、ほんのちょっとついこの間出会ったばかりの私には計り知れなくて。恋心というものが降り積もる雪みたいなものだとしたら、積もり積もった雪の重さに耐えかねて、今にも潰れそうに危うい。そんなイメージがするよ、なんだか。


 なんてね、帰るタイミングを失ってしまった私とあかねはそれから冗談みたいな穏やかな談笑交じりの乱馬の治療に付き合う羽目になった。ついでに、態度見てればわかる、と言ったあかねの言葉を実証するみたいな状況まで拝ませてもらった。
 ごきゅ、と。小気味よい音と言うには豪快すぎるその音が、双子の兄の首から発せられたというだけでもうまるで自分の首がそうなったかのように痛く感じてきたのはきっと思い込みだ…痛くない痛くない、私は痛くないったら!!!
 ごめんくださいというその声だけで、戦慄のように東風先生に走った動揺(っていっていいのかな?)は、凄まじい。てーか声だけでもそんなだなんて!!


「東風先生っていっつもおもしろい方ねぇ」


 あれで当のかすみさんはわかってないというのだからおかしい、いやおもしろいとでも言うべきか。周知の事実、知らぬは当人ばかりなり。


ちゃん、先帰ろ」
「う、うん…」


 笑顔であかねは玄関へ向かった。私の手を取って。
 だけど後姿のまま、ぽつんと「帰ったら手合わせしてね」と呟いた言葉はどこか寂しそうに見えた。










 な の に !!


「どこ行ったのさ、あかねちゃーん!!?」


 手合わせしてね。なんて言ってたのに帰ってきたらひとりでどっか行っちゃうし、なびきさんにお願い、だなんてお使い頼まれたら久能先輩と鉢合わせるは、逃げるのに時間食うは、いつの間にか外は暗いは……。


「もー、サイテー!!」


 くるん、と持ち前の身軽さをもって塀を飛び越える。植わった松の木のすぐ傍に着地して、ぽっかり口あける池を飛び越えてあたたかい光。


ちゃんおそーい」


 居間の真ん中くつろいで、まんまるのしゅうゆおせんべパキンとかじったなびきさんの顔がちょっと憎い…とは言えないこの居候の身の辛さ…。


「ふふふ…ごめんなさーい!!」
「どこ行ってたの?ちゃん」


 ぱたぱた廊下を渡るあかねも既にくつろぎモード、お風呂上り。
 ああ、でも。


「なびきおねーちゃんったら、面倒だからってちゃんに押し付けないでよね」


 手合わせの約束してたんだから、と頬を膨らます。あれ、もしかしてなんか、さっきとは雰囲気がちがうかも。なにかいいことでもあったのかなあ、なんて。野暮なことは口には出さなかったけど。


 やっぱり、


「あかねちゃんは笑ってる方がかわいいねぇ」


 これだけ、素直に思ったことを口にした。私はにこり、あかねに笑いかけて。あかねのちょっと間の抜けた顔、どうしたの、兄弟揃って。って聞こえた。兄弟、からは声が小さくて、ほとんど聞き取れないくらいだったけど。たぶんそう、そう言った。そっか、乱馬もそう言ったのね。


 私はふふふ、と笑って台所へ駆け上がった。
 かすみさんが待つ台所は、ほかほか料理の湯気で温まってどこの部屋よりもあたたかった。


「遅くなってごめんなさい」


 でも、おトーフ屋のおじさん、オマケしてくれたの。と、頼まれたおトーフ7丁よりもちょっと多いその分を、手渡した。


「ごめんなさいねぇ、なびきに頼んどいたのに」
「いえいえ、これくらい朝飯前ですから!!」


 にこりとかすみさんが笑う。母性的であたたかくやわらかい素敵な女性、だ。かすみさんを好きじゃない人なんて、きっといないと思う。あかねちゃんも、かすみさんが好きなんだ。でもかすみさんを好きな東風先生も好きなんだ。板ばさみで苦しかったんだろうか。





 ばちーん   ごきゅ





「わぁ、すごい音ねぇ。なにかしら」
「…なんでしょうね」


 その日部屋に戻ってなお、乱馬の曲がったままの首は治っていなかった。盛大でいっそ清々しいくらいのあかーい手形もオマケとしてほっぺたにあったけれど。







 そう、だね。今日ほんのちょっと、好きな人に会いたくなる気持ちになった。昔会ったあの人は、今、どこにいるんだろうか。










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