迷い子来たりて笛を吹く 01





 雨の日は鬼門。だって水を被るとまったく別の生物に変身してしまうなんて!!ふつうの世間一般の常識じゃ信じられないことがわが身には起きてしまうのだから。あな恐ろしきは中国四千年の呪い、呪いの泉。だから雨の日はなるべくおとなしくしているに限るのだ。乱馬みたくおかまいなしにあっちへこっちへ飛び回って、雨に濡れたからって女の子になるくらいで、というか私と瓜双子の乱馬が女になったら私にしか見えないっていうか、この街の皆々様には雨の日にも飛び回ってる元気少女は私に見えるって言うことで、さ。


 静かな雨の日にも家の中に湧き上がる騒々しい足音。の中心人物は言うまでもなく彼の人で。遠く遠く静かに文献を漁る私の耳に届いたかすみさんとなびきさんと乱馬の声。


 待ちなさい、とか。やだ、とか。おんなの服なんかとか。全部洗濯しちゃったとか。お風呂沸かすとか。裸でウロウロとか。……ウロウ………!!



「あんた居候でしょっ!!」



 大きなその声が廊下に響く、ちょうどそのとき。大事な大事な文献で、思わず乱馬の頭を殴っていた私の気持ち、わかるでしょう?静かーに雨の日は過ごせっつーの!!
 あまりに力が入りすぎて糸の解けた文献はバラバラと下に零れ落ちていった。トランクス一丁で床に崩れた私の姿をした乱馬のその上に。


「すみません、うちの乱馬ったら本当に馬鹿で馬鹿でどうしようもないんです」


 はい、と乱馬を受け渡し、私はバラバラになった文献を拾い集める。そしてまた静かに雨の日を過ごすのだわ。もうしばらくしたら多分また――――、ふふ、乱馬とあかねが騒ぎ出したわー。なんて予想通りにいくだろう、こんなことは外れた方がいいのになあ。


 天道家に居候してしばらく経つけれど、日常は相変わらず(多分)平穏だ。こんな日が続くのならそれもまあいいのかもしれない…あの過酷で劇的な中国にいた時よりはよっぽどいいのだから。


 人生平穏が一番よね、なんて思っていたのが1週間前のことだ。


 平穏もいいけど、劇的にロマンスだってあってもいいと思ったのは今日、この日。風林館高校に現れた人をこの目にとめた瞬間。そう、多少過酷でも劇的でも、いいんじゃあないって笑えるくらいには。











「お待ち、乱馬!!!」


 乱馬に向かって怒号するあかねの声はもはや私の中の日常と成り果てていた。乱馬に怒号するあかね、だけではない。なにかしでかしてはあかねを怒らす乱馬も、その乱馬に腹を立て追いかけていくあかねも、毎日毎日毎日、一日一回以上はそうしてケンカを繰り返すのだ。多分私が一番その現状を見続けている筈じゃないのかしらね。はじめはいがみ合ってたような所があるみたいだけど案外うまくやってるんじゃないのー?なんて思うわけなのよ。


「あー、平和ねー」


 クソ親父に付き合って修行なんか、本当は嫌だった私にはこれがちょうどいい。フツーに学校行って、フツーに生活して、たまにあかねや乱馬と手合わせしたり。うん。
 ぽかぽかの窓際の席であくびをひとつ零した。グラウンドを走り抜ける乱馬たちもいまは平穏の一コマぐらいにしか見えな―――――、


「乱馬、覚悟!!!」


「あーーーー!!!!」


 ガタン、とイスを倒して立ち上がった窓にくらい付く。乱馬に襲いかかった男の人――――遠目だけど、あれは。


「ど、どうしたの?…」


 訝しげにあきこが近づいた。窓の外には乱馬と、あかねと、渦中の人と、周りを囲む喧騒。「乱馬君がどーかしたの?」なんて言うけれど、違うの乱馬じゃないの、乱馬じゃないのよ。
 逸る心が指先を不器用にさせたけど、私はカギを開けて窓を開いてそこから飛び出した。―――この間の乱馬のように。








 渦中の人を目の前に、乱馬が、あかねが、そして遠巻きにチラチラ様子をうかがっている生徒達。私はそれをかき分けて、思いっきり大地を蹴った。


「あーっ思い出した!!おまえ…」
「良牙君!!!!」


 ふわり、と飛んで跳ねてかけていった…つもりで。浮き足立っていた心と身体は比例していたらしい、勢い余って飛びついて、飛び込んでいた胸の中に心はドキドキ跳ねて私はその人をじっと見つめた。
 ああ、良牙君、良牙君だあ。本物だ、本物なんだあ。


「君は……」
「こんなところで会えるなんて、思いもよらなかった…!!!」


 ひしひしと胸に広がる感動…嬉しい。すごく嬉しい。あの日、いきなり中国なんか行くとか言い出した馬鹿親父から逃げて逃げて3日目のその日に出会った人。多分運命きっと運命…。乱馬並みに強い人なんかはじめて会ったんだから。


「あの時は君がいてくれて本当に助かった」
「いいえ!!私だって良牙君がいな……っきゃあ!!?」


 一瞬にして目の前から良牙君が離れて、後ろに引っ張られる感覚がした。なに、と思って振り返ればそこには乱馬が見えて、引き寄せられたのかと理解した。けれど。


「ちょ、なにすんのよっー!!」


 せっかく勢い余ったとはいえ、胸の中に飛び込んだ上にあの日の喜びをわかちあうみたいに手と手を取り合えたのに!!どさくさまぎれのラッキーハプニングをぶち壊してくれるなんて、きぃ!!乱馬の馬鹿ーー!!


「うるさいオメーは黙っとけ」
「いーやー!いやー!!はーなーしーてー!!!」


 引き寄せられた。というよりは横に抱きかかえられて、それはいっそ捕まったみたいなもんだ。これじゃあ地に足をつけるどころか良牙君の顔を見ることも難しいじゃないの。ひどい、ひどいったらないわ!抜け出そうにも力で乱馬にかなうはずがないし、もがいてももがいても疲れるのは私ばっかりなんて、ひどい。


「フ…、優しく気さくでこんなに可愛らしいちゃんと、がさつで無神経でお気楽単純な貴様が兄弟だとは、正直今でも信じがたい」


 しかし兄弟の縁とは不思議なものなんだろう、と。重々しくのたまった良牙君はやおら冷や汗を流しながら私と乱馬を見比べていた。フ……まああながち私も実は兄弟じゃないんじゃって思うこともあるけど、紛れもなく同じ顔してるあたりどーしよーもない真実なんだといつもいつも思い知らされるわ、本当。

「もう一度聞く、乱馬。なぜあの時勝負に来なかった」
「馬鹿言え、オレは約束の場所で3日間待ってたぜ」
「そう…さまようこと3日目の夜半、出会ったちゃんのおかげでオレはやっと約束の場所に辿りついた…4日目に。しかし貴様はすでにいなかった」


 うわあ、幼なじみの乱馬と良牙君がここまで真剣に向き合ってるのなんか、初めて見たんだけど。どっちが強いか、どっちが速いか、なんて単純な競いあいでいつもケンカしてるふたりだったから、あの時もそうなのかなあって思ってたのに。ううん、あの時はたしかにそんなケンカの延長線上のものって感じがしてたのに、なんだか今日は違うみたい。なんだろう、なんていうんだろう、いくらケンカしてたって結局最後は元の鞘におさまって、そんな風なのだったのに、これは。


「父親と一緒に中国になんか逃げやがって!!」
「よーするに、決着つけに来たってわけか」
「決着!?なまぬるい…」


 良牙君を取り囲むものはそんなんじゃない、きっと。冷やりと背中に冷たいものが走ったような気がした。ギラギラ怒りと恨みを孕んだ目で乱馬を睨んでいる良牙君は今まで、どんな時も見たことがなかった。


「復讐だぁ!!」


 そう、それだわ。そんな風にギラギラしたもの。と思って良牙君を見上げれば、力任せに投げられた唐傘が風を切る勢いで空をぐるぐる回って来た。威嚇、だ。乱馬へと向かって来た唐傘だけれど、すらりと難なく乱馬は避け、傘は良牙君の手元に納まった。


「オレはどんな手を使ってでも、貴様の幸せをぶち壊す!!」













 昔、とはいえかつての幼なじみに向かってそこまで言うなんて――――…。


「乱馬、あんた一体良牙君になにしたのっ!!?」
「あっぢー!!!!」


 ばしゃん、と飲む為に注がれていた緑茶を浴びせかけて私は乱馬の姿を元に戻した。やっぱり熱湯だったか、私猫舌だから熱いののめないのよねー。というかなにより私の姿で気安く肌を晒すな。むしろ良牙君になにをした。なにをしたという意味じゃあ多分私が一番被害を被ってるような気がするんですが、ああ、考え出したらなんか苛々してきたわ。


「おまっ、熱湯…!!」
「な に し た の よ っ !!」
「なにもしてねえよっ」


 嘘おっしゃい!!と乱馬に掴みかかる私を、あかねちゃんは後ろから必死にしがみついて止めていた。ダメよ、ダメ!!それはかすみお姉ちゃんのお気に入りのカップだから!!と聞こえる声に少し戦意を喪失しつつも、そうか。と、おかげでクールダウンした私はただ乱馬を据わった目で睨みつけるだけにおさまっていた。


「…なんかしたかなー…」


 ポツリと呟いた乱馬はまるで考えもつかない、とでも言うような感じだった。本当に、なにもしてないと言うのだろうか、良牙君の思い違いだとでも?あんな、ただごとじゃあない雰囲気で幼なじみに詰め寄ってきていたのに?


「乱馬君、手紙届いてるわよ。響良牙君て子から」
「良牙から?」


 とたとたヤカンと手紙を手に、かすみさんがやってきた。ああ、乱馬の為に沸かしてくれたお湯は必要なくなってしまいました。ですからそれは、なくなってしまった私の緑茶分として湯飲みの中へ。40度前後のお湯は、私にとって飲むにはちょうどいいくらいなんですよ、えへへ。
 ずず、と入れ直してもらった緑茶をすする。


「あ」


 見えた。私見えた。見えちゃったんですけど。「うーーーーーーん」と頭を抱えてるほどに乱馬を悩ます良牙君からの手紙。"果たし状"と書かれたその手紙の重さったらないわよねぇ、今までここまで深刻になったことなんかなかったんだからさ。


「なんかあるんでしょ。ただごとなかったもん、あの恨み方」
「あかねちゃんもそう思うんだ」
「そんなことは―――、あ―――」


 歯切れ悪いなあ。でもなんかしたのね、思い当たるフシがあるのね。変わらない幼なじみの関係にひび割れを起こすほどのなにかを。


「高校にあがってからの昼メシ時のカレーパン…」
「はあ!?」


 ちょっと、なに真剣な顔してカレーパンって…!!私だけじゃない、あかねちゃんもなびきさんもかすみさんも不思議そうな顔してるじゃないのよっ!!


「なにいってんの、乱馬!」
「あのなあ、お前はわかんねーかもしんねーけど、男子校の昼メシ時は戦争なんだからなっ!!」
「私いつも乱馬の分もお弁当作ってたじゃない!!!」
「あんなもん昼までもたねーっつの!!」


 あっ……きれた…。開いた口が塞がらないって、こういうときに使う表現なのね、とあらためて思った。そうか、そうなのか。でも仮に男子校の昼メシ時が戦争だったとしても、果たしてそれだけで良牙君がただごとではない恨みかたをするだろうか、仮にも幼なじみに対して、だ。信じられない、良牙君はそこまで心の狭い人ではなかった筈だ、乱馬と違って…。


「…お前な、全部聞こえてるんだよ」
「うるっさいわねー、カレーパンとったくらいで良牙君があそこまで乱馬を恨むなんてあり得ないわよ!そんなことしょっちゅうだったじゃない!!」
「だよなー……となると…ヤキソバパン…コロッケパン…メロンパン…カツサンドミートパンワカメパン…うーん…」


 しまいには頭を抱えて唸り出す乱馬。本当に、お気楽単純しあわせ思考の乱馬なんて、自分がしでかしたことすら忘れてるのかもしれないから聞いても無駄だったかも。
 溜め息をついた私の後ろで、かすみさんが穏やかに緑茶をいれながら「チリも積もればかしらねえ」と呟いていた。…そうかもしれないわ、もしかしたら。


「 と こ ろ で 、ちゃんってば良牙君となんかみょーな雰囲気だったけど、アレは?」
「ん?」


 くすくす笑いながらあかねが耳打ちしてきた。後ろで唸ってる乱馬から隠れるみたいに私はあかねの耳元でこっそり囁くのだ。なんとなく、この手の話題、というか良牙君に対して私が持っている感情については乱馬にはバレないように努めていた昔のクセ、なのかもしれない。


「えへへ。私、良牙君のこと好きだから」
「やっぱり。なんとなーく、そんな気がしたのよね」
「なーにが"やっぱり"、だ!!」
「ぎゃあ!!」


 声を潜めていたのに、いつの間にか割り込むなんて、ちょっと乱馬あんたサイテー!!!なんて罵る間もなく詰め寄られ、私は「なによ」と乱馬を見上げるくらいしかできなかった。なによ、本当になによ、だ。


「そのリボンだっておかしいと思ってたんだ、あんなにびらびらしたもんは邪魔だって言ってたのによ」
「う、うるさいなあ!!」


 ひらひらするリボンを、慌てて後ろに隠して手でおさえる。なによ、なにさ、幼なじみから貰った大切なものをつけてちゃ悪いって言うの!?あー、いつもならすらすらでてくる言葉も、乱馬の気迫に押されて出てこないわ、どうしよう。


「だいたいお前、一度良牙を振ってるじゃないか!」
「え゛ーーーーっ!!?」


 う、わ!耳をつんざく声にクラクラする。ついでに心もフラフラする。そうよ、確かに私は一度良牙君を振ったことがあるけれど、でも今は好きなんだもん、昔は違ったけど今は好きなんだもん、それでいーじゃないのよ。


「ちょっと、ちゃん、どーゆーことなの?」


 ずずい、と今度詰め寄ったのはなびきさんとかすみさん。いや、どーゆーことなのって、ふたりこそどーゆーことなのっていうか、なんていうか。


「えーっと……話すと長くなるのですが」


 口火を切って、語り始めるそれは、紛れもない私の恋物語でもあり、私と乱馬と良牙君の昔話でもあったのでした。