03










 それから1週間後、約束の場所に現れた良牙君は、果たし状どおり風林館高校のグラウンドで乱馬と向き合っている。あれから乱馬は多分、いや絶対パンの恨みだと引いて譲らず、覚えている限りのパンを買い溜めて持ち歩いていた……1週間くらい?


「なにを考えているんだきさまー!!!」


 瞬間怒号した良牙君の声に、やっぱり違ったか・と、嘆息する。そうだよねぇ、そんなちっさいことで復讐にまで結びつくわけがないのに、まったく。
 だったら良牙君の言う復讐ってのはなんなんだろう、少なくとも、私たちが中国へ向かってしまう前の果たし合いは、いつもの力比べのようなものだったと思う。連れて行ったあの場所に、乱馬はいなかった。ちょっと悔しそうな、腹立たしさを抑えながらもどこか堪えたような良牙君の顔。勝ち逃げされた・と、多分いつも思っているんだ。なかなかいつだって良い勝負をするふたりは、総合的には拮抗している。力は良牙君が、速さは乱馬が、勝ってて。………そして運のいい乱馬はいつだって必ず後ちょっとのところで勝ち逃げてしまうんだわ。


(もうちょっと、良牙君も器用だったら違ったのかもしれないけど)


 だけど、と思う。だけど今は、そんな良牙君の不器用なところですら、いとしいなあ・と、思ってしまえるんだ。愛って偉大、とは笑った。


「わっ!!なんだ!?このカサ」
「どうしたの」


 はたと気がつけば、既に果し合いは始まっていて、ちらほらと戦いの飛び火が出始めていた。良牙君の戦い方が変わってる・と思う。昔はあんなに小道具なんて、使わなかったのに、と。でも、力任せだけじゃあ乱馬に避けられてしまうものね。ちゃーんと考えてる。


「重い…」
「どしたの、あかね」


 神妙な面持ちで傘を手にかけているあかねの傍によって、もそれに触れた。ずしり・と腕にくる重さの唐傘だった。あ、前より腕力、あげてる・と思って、グラウンドで接戦しているふたりに目を向けた。考えてる、ちゃんと。力をあげるばかりじゃなく、ちゃんと総合的に力をあげてるんだ・と。


「乱馬!!接近戦はだめーっ!!!」


 あかねが叫んだとき、良牙君の腕の間合いに乱馬が入った。ゆらり・と、殺気に包まれた腕が乱馬の顔めがけてとんでいく。乱馬はそれを避けたけれど、かわしきれない風圧が、ピシリと音を立てて乱馬の頬を掠っていった。血、だ。乱馬の血を見るなんて、久しぶりだと思う。最近怠けてたっていうのもあるけど、追いつかれてる、確実に。
 ぺろり・と、ぬぐった血を乱馬は舐めて、その雰囲気を真剣に変えた。本気をだすんだな、とわかった。は溜め息をつきたい気持ちで、グラウンドを後にした。




「やな感じだわー」


 だばだば蛇口から垂れ流した水をと一口、飲む。早く終わってくれないかな、とぼんやりグラウンドを見る。ちらほらと、遠い視界に飛び上がるふたりの姿が見える。もう乱馬の顔はムキになっているし、良牙君ははじめから本気だった。こうなったら本当に、決着がつくまで終わらないなあ。そうすると、長いから・な。
 は手持ち無沙汰になにもやることもなく、みんながギャラリーとしている場所に帰るのもなんとなく気が引けて、そのままその水飲み場に寄りかかってぼおっとした。先に帰ってしまおうか・とも思ったけれど、そうしたら次に良牙君に会えるのはいつだろうかと思うので、帰れずにいた。
 昔みたいに、笑ってまいったって言って、やめればいいのに。久しぶりに会ったのに。久しぶりに日本に帰ってきたのに。
 ちらちらと視界の端を掠めるふたりを見ながら、は溜め息をついて今度はひざを抱えた。


「今の言葉…」


 あ、乱馬の声・と振り向く。振り向いた瞬間はぎょっとして、目を見開く。こっちめがけて飛んでくる乱馬と、すぐそこにいる良牙君。やばい、乱馬は頭に血がのぼってて、まわりなんて見えてない。まきこまれる。
 すぐに逃げればいいのに、の身体は動かない。いつだって、こんなときばっかり要領が悪い。そうだ、あの時だってそうだ。馬鹿親父に中国に連れて行かれそうになったときも、連れて行かれた後も、それよりもっと前、もっともっと子供の頃からずっと。


 ぎゅう・と目を瞑って、それから硬い石の壊れる音、それから勢いよく水の飛び出す音。


 ふわり・と身体を包んだ浮遊感があった。これは?そろそろとが目を開ければ、目の前でくるくるまわる唐傘と、器用にを抱きかかえながら水柱を跳ね除ける人。


「りょーが、くん」
「だいじょうぶかっ!?」
「…ん、」


 だいじょうぶ、と抱きかかえられたままには呟く。そしてついでに、その場に乗じてぎゅう、と抱きついてしまうのだ。勝負の最中でも、私のことを見ていてくれたんだ・と、嬉しくなっるのに、心臓はぎゅうぎゅう苦しい。だい、好きだぁ・と、思う。思えば思うほど、頭に血が上るみたいにくらくらする。顔が、熱い。
 くるくるまわる唐傘の後ろ、滴る水を散らしながら影が移動した。バッ・と、現れたそれは私の姿を持つ兄、乱馬。
 ヒュ・と喉がなる。ヤバイ・と。どうしてだか危機的には思い、固唾を飲み込んで逸る心臓を押さえつけた。さっきの、ときめくような胸の逸り方とは違うこれは、焦燥感のようなもの。


「いくぞおっ!!」


 対峙した姿に、息を飲む良牙君の気配。驚いてる…のは無理もない。がいる、ふたり・も。良牙君に抱きかかえられていると、良牙君に対峙しているの姿を持つ乱馬。
 交互にゆく視線に戸惑いを感じた。…というか、ここまできて気がつかない乱馬も、冷静さを欠きすぎている!!苛・と、は唇を噛み、うろたえる良牙君の腕から素早く降り、もまた乱馬に対峙した。既に向こうは仕掛けて来ている、けれどスピードならいまだかつて乱馬にだって負けたことはない。
 はらり・と裂けた服の隙間から胸を晒していることに苛々しながら、は乱馬の後ろに一等素早く移動した。瞬間バキ・と、繰り出された蹴りがヒットした音が聞こえる。良牙君にあたったな、とまたは怒りを増やし、力任せに体重をかけ、その背中に膝から着地してやった。


「っっっ、てぇえええ!!!」


 重力のまま、大地に。不意を突かれた乱馬の身体は落ちていった。良牙君の、目の前で。


「乱馬、か?」
「私が下に敷いてるのが、ね」


 ふふふ、と今にも笑い出しそうな笑顔で、は呟いた。「水」と。
 獣の姿はあまり好きではなかった。毛並みも、姿も、現実には存在しない伝説の姿をかたどった生き物のそれらはみな口をそろえて美しいと賞賛されたけれども。泳げないし、力加減は難しいし、ちょっと触っただけで生き物は怪我するし、小動物はこの姿に怯える。苛々・と、またの中にふつふつと怒りがこみ上げて溜まる。


「良牙、お前がどうしておれを恨んでいるのか知らないけど…」


 「おれだってこんな身体抱えながら、明るく正しく生きてるんだ!!!」と、乱馬は私の膝下で熱っぽく語った。ぜんっぜん説得力は、ないんだけども。


「私の姿で、明るく…正しく…ね」


 もういちど、はふふふ、と今にも笑い出しそうな笑顔で言った。不用意に水を浴びて、かわいらしい姿晒して、それはそれで別にいいんだけれども、いかんせんデリカシーってものが乱馬はない。もうちょっと人の気持ちを考えてって、いつもいつも言ってるのに。


「乱馬、貴様の不幸とはその程度か!!」


「笑止!!そんなかわいらしいちゃんの姿で不幸をふりかざすとは、片腹痛い!!」


ちゃんの方がよっぽど可哀想じゃないかっ!!!」






 ひたひた、乱馬の上から一直線、は水柱に向かって歩いた。はじめは勢いよく空に噴射したそれはもういくぶんか収まっていて、これなら大丈夫だ・と。飛び込んでも平気、と。はうろたえることなく水を浴び、その姿をのろわれた白い虎の姿へと変えた。













2006/9/1 アラナミ