09










「まったく…失礼にも程があるってものじゃないか」


 フ・と、三千院は、良牙の後姿に悪態をついた。憤怒を通り越して呆れたというか、もはやふたりの世界を作り上げてしまっている良牙との間には、たぶん今は誰も入ることが出来ない。それに気がつかないのは余程空気を読めない奴か鈍感かはたまたバカなのかのどれかであった。けれど今ここにいる三千院は空気が読めない奴で都合のいい感じに鈍感でそしてあきらかにバカであった。バカというのは頭の良さをはかる言葉ではなかったが、おりこうではないと言われれば似たようなものなのかもしれない。とにかく三千院は奇特にもそんなみっつの誇れない特技を持ち合わせていたわけである。




「三千院!!!」


 ドシャ・と、氷の上を滑るのを通り越し、まさに言葉のまま、力いっぱい氷の上にスケートシューズを突き刺して乱馬は立っていた。
「この場で勝負しやがれ!!てめえだけは生かしちゃおかねぇ!!」
 氷も溶かす勢いの気迫に、ふたりだけの世界に浸っていたも、思わず引き寄せられて注意をそっちに向けざるを得ないくらいだ。生まれて初めて、本気で怒っている。そう言ってのけた乱馬の言葉に、嘘はない。ビリビリと肌をつたわって来る怒りは、なにも乱馬自身が放っている殺気だけではない。じわじわと、の腹の中心から湧き出るものは、同調した怒りだった。ほんのつい今しがたまで幸せに浸っていただったけれど、それどころではない。同調した乱馬の怒りがガンガン流れ込んできて、を苦しめた。すごい、こんな湧き上がる怒り――――にはどうしようもなく、ただ必死に良牙にしがみついてやり過ごそうとした。
ちゃん?」
 気遣わしげに良牙がの顔を覗き込む。それを見て、はえへへと笑って見せたが、その笑顔は力なく弱々しかっただのだろう。良牙の顔はさらに心配げになって歪められただけだったからだ。


「ちょっと、乱馬の気持ちにあてられちゃったみたい」
 だから、もうちょっと乱馬から離れたところに連れてって・と、声は出なかった。我を忘れる乱馬の怒りに、自身我を失いかけている。くらり・と、一瞬目を回したの身体はもうじっとりと汗をかいていた。ひた・と、頬になにかのあたる感触がした。なんだろうと思えば、良牙の手が優しくの頬を撫でてくれていた。かあ・と、別の意味での頭には血がのぼった。
「すぐ静かなとこに連れてくから」
 優しく良牙が笑って、それだけですっと軽くなったの心は同調していた筈の乱馬の気持ちが薄らいだ。抱きしめられていた良牙の腕が、まるで子供を抱き上げるようにだったけれどそのまま力強くを持ち上げ抱きかかえた。ぼんやりと、は眼前を見据える。
 対峙した乱馬と三千院が組み合っている―――すごいスピードでくるくるまわる三千院に向かって、飛び込んだ乱馬が、打たれながら突いている――――。


「五百十八発……」
 乱馬の突きが一発増えるごとに、同調して湧き上がる怒りもだんだんと鎮まっていくのを感じた。けれどは良牙に抱きかかえられる腕の中で、ぼんやりと意識を白霞に包まれていくのを感じた。思ったより、疲れたのかもしれない、これは。それとも、意識を失いそうな乱馬の意識を、もらってしまっているか。答えは出ない――――はただくたり・と、意識を手放してしまったから。











 白霞のかかった頭の向こう、人の話し声が聞こえた。ぽそぽそと、数人の話し声が向こうで飛び交っている。小声で話しているわけではないのだろう、でもそれは頭の中で一枚なにかを隔てたようにぼんやりとくぐもっている。ここはどこ・と、暗く沈んだ意識の中では思った。けれど、まぶたは重く、上がらない。ただ、小さく聞こえていた声が、だんだんとはっきりと、聞こえてくる――――


 もぉ、だらしないんだから。五百十八発も突かなくちゃ勝てなかったの?うるせー。オレにあんなことした野郎を、一発でラクにしてたまるか。一体なにがあったの?べ、別に…。
 まったくみっともねぇな、乱馬。オレなら絶対あんなマヌケな目に合わないぜ。やかましい!スケートさえ履いてなけりゃあんなやつに…


「キスされなかったのにってか?」


 ぱちん・と、弾けるようにのまぶたは開いた。薄暗い畳の上、敷かれた布団の上で横になっていたは、状況をつかみかねて訝しげに眉を潜めた。どうして私はここにいるの?そもそも、ここはどこ?ぐるりと見渡す場所は見覚えがあった。ここは、天道家だ。帰ってる…のはどうしてだ?ふらふらとする頭で、は身体を起こした。起きたばかりの頭はまだ思考がついてまわっていないけれど、だけどそれだけだ。明かりを辿って、は声のするほうに向かった。


「ま、相手が色男だったことが、せめてもの救いだな」
「てめえっ!!」
 ハハハ・と、笑ってさえいる良牙は、一番最後にが見た良牙とは180度かけ離れているように思えた。安心が、その笑顔を呼んだのだろうか。ぼんやりと、居間の入り口で突っ立っていると、それに気がついたあかねがに声をかけた。
ちゃん、もう大丈夫なの?」
 あかねの声に続いて、一斉にへと視線が集まった。「うん」おぼつかない声でが頷くと、誰よりも早く良牙が近づいて、の額に掌をあてた。寝起きのせいでまだ少し眠たいせいだろうか、の身体は火照っていたので、良牙の掌の体温が自分よりも少し低くて、それが少し心地よく感じられた。うっとりと良牙を見れば、言葉を詰まらせたように良牙は言葉にならないうめき声を二度三度と上げた。


「そう、良牙君たら。カンチガイしちゃって大変だったのよねー」
「や、それはっっ!!」
 きゃっきゃっと、後ろで跳ね上がる声はあかねのものだ。そうだ、そうだった・と、は今更ながらにいろいろと思い出し、羞恥心が湧き上がってきた。
「不甲斐ない乱馬と違ってちゃんはしっかりしてるし」
「まあ気にしないことよ、乱馬君も」
「男が相手じゃ数のうちに入らないわよー」


「……ま、それがファーストキスだったら悲惨だったかもしんないけどね」


 ぽそり・と呟いた、の声は、しっかり乱馬に届いていたらしい。あからさまに傷ついた様子の乱馬に、はひっそりと、そうか、やっぱり初めてだったのかと、いささか同情的な意味合いの視線を送った。同調して、いろいろ酷い目にも合ったけど、でもそんな痛みだったらしょうがないか・と、諦める。
 しかし良牙とのデートはおじゃんになってしまったのだと考えれば、なんだかこっちの方が損をした気分になるのもしょうがないような気がする。


「良牙君」
「ん、なんだい」
 ちょいちょい・と、手招きして呼んで、そのままは庭に出た。ひんやりとした冬の空気がほほを撫でる。
「デートの仕切りなおしに、一緒に星でも見ない?」
「それは―――勿論!!!」
 それじゃあ早速・と、ふわりと抱かれて連れて行かれたのは屋根の上だった。別に庭でも良かったんだけど、とも思うが、わざわざ見晴らしのいい場所に連れてきてくれたのだと思えば胸もあたたまる。腰を下ろした良牙の膝の上に抱かれたまま、ぴったりくっついては星よりも良牙を見た。
 キラリと光る、良牙の首にぶら下がる。邪魔なもの。先日白鳥によってつけられた、忌々しい首輪―――思えばあの二人とさえ出会ってなければこんな風にデートを邪魔されたりはしなかったのかもしれない。そうか、果たし状を叩き付けたいのはこっちでもある・と、は内に怒りを秘めながら、そっと良牙の首にある飾りに触れた。
、ちゃん!?」
 ビクン・と、身体を淀ませて、拒むようにそれ掌で覆い隠した。けれど、元より良牙の膝の上にいるには、それを隠そうともう既にはっきりと目に入っていたし、そもそもつけられてしまったその場にすらいたのだ。別に、追求するつもりはないけれど・と、ゆったりと、はその身体を良牙に委ねて寄りかかった。ちょうど耳のところにある良牙の心臓は、動悸が早くバクバクと音がしていたけれど、白を切るつもりなんだろう。不器用だなあなんても思って、でもは別にいいのだ。担がれてあげたいと、そう思っている。良牙が自分のことを好きだといい、大切だといい、そのために隠そうとしているのならば・と、そう思って。









 


2007/5/27 アラナミ