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 はぁ、はあ、はあ・と、上がった息を乱馬とあかねは押さえつけた。大した運動はまだしていない、けれどあんまりにこれは心臓に悪かった。危機一髪・とはまさにこのことか。いやだが危機一髪というにはまったくスピードは落ちず、ましてや止まりもしなかった。滑ってそのまま勢いでフェンスまで上り詰め、最頂点まで達したあとは、落ちるだけだった。けれど運良く足から着地できたおかげで、怪我ひとつとしてない。
 そんな乱馬とあかねを知ってか知らずか、たぶん三千院は見ていなかったから知らないだろう。片ひざついて、立ち上がった今はもう、体勢を整えた乱馬とあかねがそこにいた。


「この三千院に…片ひざをつかせるとは…」
 ゆらり・と、三千院は立ち上がる。掠めたように入った一発とはいえ、一発は一発だ。相当きいている―――と、内心乱馬はほくそえんだ。
「今度あかねに妙なマネしやがったら、片ひざじゃすまねぇぞ」
「ほお…どうすると?」
「棺桶にたたっこんでやる!!」


「いいか、あかねはオレの許婚だ!!手ェ出したらぶっ殺すぞ!!!」


 歓声にざわめいていた会場は、今は静まり返ってしんとしていた。氷の上で立っている4人の温度は、いやおうなしにあがっていく。
「許婚…か。もろい絆だ…」
 勝負にかける温度は熱く、だが三千院の笑みはそれ以上に冷たかった。許婚とはなんだろうか、言葉でいう意味ならばそれは親と親同士が決めた結婚の約束である。そこに当人同士の気持ちがあるものもあれば、ないものもある―――乱馬とあかねの約束も、それと同じだった。けれど、一緒に暮らすうちに、一緒にいるうちにそれはなにかしらの変化を迎えたはずだ―――今のふたりを見れば、それはよくわかるから。
「君たちの関係…腕によりをかけて壊してやろう」
 絶対勝つ・と、燃える気持ちにのせた冷笑―――知らないんだろう、ただ一人の人を大切に思う気持ちを、この男は。たくさんの人に囲まれる今がいちばんだと考えている、この男は。


 怒っているのだろうか、乱馬の表情はすごく真剣だった―――その表情どおり、本気で言ったの?と、あかねは隣に立つ乱馬を見ていた。
「ふ、大見栄をきっといられるのも今のうち…我々格闘スケート黄金ペア、もうひとつの通り名は、
氷上の逆仲人!!」
 そうです、三千院帝、白鳥あずさペアの究極の得意技は、カップル崩し!!歓声にまじって、マイクから拡張された声はひときわおおきく乱馬とあかねの耳に届いた。
「今までわれわれの手にかかって…」
「仲間割れしなかったペアはありませんのっ」
 黄金ペアさながら、見事なステレオ効果で喋りながら近づいてくる―――そう、まだ試合は途中。やるかやられるかの戦いの場で、ぼけっと突っ立っているのはナンセンスだ。


「しゃらくせぇ!!行くぞ、あかね!!」
「う、うん」
 掛け声をきっかけに、乱馬はあかねの肩を組み、向かってくる三千院たちに踏み込んで先手必勝の蹴りをお見舞いする。だが、見切られたそれはあっさりとかわされ、勢いのままに飛び出したままの足を掴まれ、あろうことにも乱馬とあかねは引き離された。ついた勢いが殺されることなくそのままだったあかねは、連れて行かれる乱馬を目で追った。
「あ!!」
 勢いを殺された乱馬は、がば・と白鳥に抱きつかれている―――あまつさえ、遠目から見たら
押し倒されるような体勢だ。反射的に腹を立てたあかねは、すぐにきびすを返して乱馬の元へ向かう。
「なにやってんのよ!!!」
「え、え」
 抱きつかれ、鼻先にキスをされた―――ぱちくりと、目をしばたいて乱馬は一瞬その意識を飛ばしてしまった。スキありですわ・と、聞こえたその声も、今となってはもう遅い。すばやく軽い身のこなしで、白鳥は乱馬の股の間を滑り、その両足をつかんだ。前へと行く力に、当然乱馬は前のめりに転んでしまう―――だがそこに飛び込んだのはあかねだった。氷のリンクに頭を打ちそうになった乱馬は、飛び込んだあかねに手を掴まれ、すんでのところでそれを回避できた。だが、
「ぬおおおお!!!」
 あの優男のどこにそんな力があるのか―――だが実際こんなことが出来たのだから、それくらいの力はあったのだろう。白鳥の足を掴み、三千院はそのまま自分の頭上に持ち上げた―――勿論白鳥に足を掴まれた乱馬も、乱馬とてを繋いでいるあかねも、3人まとめて全員を・だ。


「うっ!?」
 ぐる・と、視界が一回転する。なんだ・と思えば、軸になっている三千院が強く、早く、その場でまわり続けている――――「でっ、出ましたーーっ!!究極のカップル崩し!!別れのメリーゴーランド!!」解説者の声に一瞬笑いたくなったが、だがそんな余裕はなかった。一番下で回っている三千院は、そんなに大したことのない回転なのかもしれない。けれど軸からずれた場所にいる乱馬とあかねは、遠心力に振り回されている。ましてや一番外周にいるあかねは、それだけで辛いはずだ。


「彼女の手を離せば回転を止めてやる!!」
「なっ!?」
「離して乱馬!!」
「バカ!!叩きつけられるぞ!!」
 ぎゃあぎゃあと、今こんな状況でも、離せだの離さないだのと乱馬とあかねは口論している。もちろんそれはお互いを思いやってのことなんだろう。「パートナーを裏切って手を離せば、ひとりだけ助かります!!」煽るようにまくしたてる解説者に、本当に煽られて焦ったようにあかねは自分から乱馬の手を解こうとする。
「いいから離して!」
「バカッ!!あんなこと言われて離せるか!!」
 ぎゅんぎゅん空を切る音すらさせて回転する別れのメリーゴーランドは、早くなるばかりで一向に衰える様子もない。ガマン比べだと乱馬は思っていた、ひとりならば耐えられる。けど、あかねはそうはいかないだろう。でも、だからといって、その手を離す気なんて乱馬はさらさらなかった。
「信じあっていればいるほど…いざ手を離された時のショックは大きい!!別れのメリーゴーランドにかかったペアは、間違いなく破局を迎えるのだ!!」
「く、く、口車にのっちゃだめよ!!」
 乗っているのはどっちだ・と、乱馬は思う。指先で、自ら手を振り解こうとするあかねの指を、乱馬は頑なに離そうとしない。けれどどちらかがあがけばあがくほど、繋がっていたはずの手はずれていってしまうものだ。つる・と、あかねの右手が乱馬の左手からすり抜ける。
「大丈夫だから、はなし…」
「ばかやろうっ!!」
 すり抜けた手を追いかけて、乱馬は強く、あかねの手を握りしめた。


「おめーみてーなニブイ女、一人でほーりだせるか!!」
「な、なんですってぇ!?」


 その瞬間・だ。もうダメ・と、白鳥の手から乱馬はほうりだされた。あかねと一緒に。
 回転と、遠心力。力のままにまっすぎ飛んでいくスピードは驚異的だった。このままいけば確実にカベにぶつかる、しかもあかねから・だ。咄嗟に乱馬の身体は、考える間もなく動いていた。あかねと繋いだ手を、思いっきり後ろに放り投げるような要領で、自分が前に出る―――






 ***






「や、なに?今の音…」
 試合会場に入った途端、聞こえたのは重く響いた不穏な音だった。こんな音、出すほどの戦いをしているっていうのか―――こんな重いの喰らったら、ふつう死んじゃうわよ・と、は通路を駆けていく。ガシャン・と、リンクに一番近いフェンスににじり寄って、氷上をみる。立っているのは三千院と、白鳥だ。ゾ・と、背筋に悪寒が走る。三千院と白鳥の視線の先、ここからじゃ遠い・と、はフェンスの周りを駆けて近づく。
「乱馬っ」
 硬く分厚いコンクリートの壁が、大きく陥没していて―――、そしてその真ん中に、乱馬がいた。背中を走る悪寒がどんどん酷くなって、は冷や汗をかきはじめた。歓声も、ナレーターの解説も、遠く一枚フィルターを隔てたところで聞こえてくる。ついに手を離さず。別れのメリーゴーランド破れたり。聞こえた言葉はでもの頭の中には入ってこなかった。ふらふらと、近づく、一番傍にいたい、でも傍で見たくない。矛盾した気持ちが渦巻いて、とめどない。


 どうして・と、は思う。どうして起き上がらないの、いつまで経っても倒れたままなの、早く起きて。なんでもないって言ってよ!!!


 と同じように、倒れた乱馬のすぐ傍で、あかねは動揺していた。起きない、目を開けない、声をかけても反応しない―――そして、追い討ちをかけるように三千院と白鳥の言葉がかかる。
 身体中の骨がバラバラ、生きてたらバケモノ。ぎくり・と、身体を震わす―――


「、乱馬の……バカッ!!」


 乱馬の身体に崩れ落ちる、あかね。けれど反射的に乱馬のまぶたは開いた―――やや不機嫌そうな顔をして。
「あのなあっ、ありがとうとかごめんなさいとかいえねーのかっ!!」
 がは・と、身体を起こした乱馬に、は身体を震わせた。抜けていく力、安堵にほっとしすべて抜け切っていくような感覚に、はその場にしなしなとへたりこんでしまった。そして同時に、腹から湧き上がる、無事だと分かりこそすればの怒り。だましたな・と思うと同時に、よくも乱馬をあんな目にあわせたな・と思うものだ。


「あんなことで参るオレじゃ…」


 ぐん・と、勢いをつけて乱馬は立ち上がる。勢いと振動に揺れた身体が悲鳴を上げて、乱馬の顔は歪んだ。平気なんかじゃないんだ、その痛みに涙を滲ませるほどには。ぐぐ・と、抜けた腰に叱咤をしては立ち上がる。勝負はこれからだぜ・なんて、無理した声は強張って歪んでいる。
「さあ、試合再開!!ペットのブタを巡ってのシャルロット杯、栄光はどちらに!?」
 力強く地を蹴り、は飛び上がる。フェンスを越え向かったのは氷上だったが、飛び上がると同時に聞こえた声に振り返る。飛び上がって翻ったブルーの制服の向こう、ブタがいないぞ・と、この試合を征したどちらかに贈られるトロフィーに集まった視線の先に、その身を繋がれたブタの姿はなかった。賞品が消えた・と、会場は騒然となった。もちろんの心もそれと同様に疑問符が浮かんだ。いないって、どういうことだろうか。振り返って、疑問に思っても、飛び出したは止まらない。氷上につく足を滑らないよう気をつけて、着地した。試合場である氷の上では、いまだ戦いの火蓋は切って落とされたままだが、しかし試合に燃えているのは男の意地だけみたいであった。かたや乱馬を心配し、無理をしないでと乱馬を引き止めているあかね。かたやシャルロットがいなくなったから一緒に探せと三千院に訴えている白鳥。


 つつ・と、上履きを滑らせては二人の元に向かおうとした、その時だ。


 照明が落とされ、会場が暗くなった。停電か・とさらに会場はざわめいた。スポットライトの光と、氷に反射された光で会場はまばゆいほど明るかった。だからだろうか、急に広がった闇に、目が慣れない。
「きゃ・あっ!!?」
 どこを滑っているかわからなくなったは、氷の上に躓いてしりもちをうった。ひんやりとした感触が下から這い上がるようにのぼってくる。目を細めても、まだなにも見えない。ならばこの暗がりの中、頼りになるのは音だけだった。がやがやと聞こえる多数のざわめきの中、言い争うような声がして、それから――――、






「え?」


 それから照明が復旧し、再び会場が明るくなった。そしての目に入ったのは、三千院の端正な顔のアップと、その足にしがみつく白鳥、そしてその後ろにいる良牙と、のそっくりな姿―――つまり女の姿になった乱馬だった。









 


2007/5/31 アラナミ