17










 目覚めると、そこは知らない場所だった。タオルにくるまれ水分はふき取られていたけれど、だがやっぱり少し湿っていて寒かった。くしゅん・と思わず出たくしゃみはいつもの声と勝手が違って獣じみていた。


「起きたか、今お湯かけてやるから」
 近づいてくる声は乱馬のものだった。ふんわり湯気をたてているヤカンがから、身体にお湯をかけられ、はその姿を人に戻していく。
「ひっ、くしゅ!!」
「ちゃんと身体拭けよ」
「はあい」
 新しいタオルを与えられ、は丹念に身体を拭いた。お湯をかけてもらったとはいえ、この冬場にシャワーだけ浴びたようなものだ。冷たい水に落ちたの身体は、タオルにくるまれているだけでもあったかい。
「ねえ、私の服は?」
「今乾かしてる」
 乱馬が指をさした先には、暖かい色をさせた石油ストーブがあり、そしてその上にが着ていたコルホーズ学園の制服が干してあった。近づいて触ってみるが、まだ生乾きで、このまま来たら気持ち悪いことになるだろう。
「そこで、あったまって待ってろよ。これ、お茶な」
「え、なにどこ行くの?」
 起きて動き回っているに安心したのか、乱馬はそそくさとここから出て行こうとする。お茶・といわれてさされたテーブルの上には、親切にも急須と湯飲みがあり、そのうちひとつの湯飲みにはなみなみとお茶が注がれていた。湯飲みに注がれたお茶をすすりながらは考える、ここはどこだ。なんとなく見た感じは保健室のような気がするのだけれど。
「あかねんとこ。まだ、気がついてないんだ」
 そっか、一緒に落ちちゃったから。いや、が滑ったせいで、一緒に落ちる羽目になったのだ。
「私もいくっ」
「だめだ」
「なんでっ!?」
 服乾いてねえし、お前裸のまんまで移動するつもり?珍しくも珍しい乱馬の正論に、は反論できずにぐっ・と押し黙った。だって心配なんだもん。
「お前はさ、あれを見てろよ」
 すい・と、乱馬が指をさしたのは、ソファの上に転がった黒ブタだった。見覚えのある姿に、はそっと近づいた。びしょぬれになった風貌を見れば、良牙も水の中に落ちたのだということは分かる。寒そうに身体を震えているその身体を、はタオルで包んでやった。


「………バカね」
「…………じゃあ、オレは行くからな」


 乱馬がこの部屋から出て行って、残されたのはとブタである良牙ふたりだけだった。はタオルに包んだ良牙を膝の上に乗せ、ストーブの前で暖を取り、そして考えていた。ああまでしていついつも、盛大なケンカをする、良牙と乱馬のことを。
「いっつも、良牙君が乱馬にケンカをふっかけるのよね…」
 それで、いつもいいとこまで行くんだけど、要領が悪かったり間が悪かったりして乱馬に一手先を持ってかれるんだ。は知っている。昔からずっと一緒にいたから知っている。
「不器用なんだよね」
 つい・と、背中を撫でれば、ぴくぴくと僅かに身じろいだ。そしてふとは気付く。白鳥につけられたままの首輪があるということに。
「そういえば、外さなきゃ・ね」


 膝に抱いていた良牙を下ろし、は鍵を取りにいく。ストーブの上にかかっている制服の、スカートのポケットの中のから鍵を取り出す。生乾きの制服は少しずつだがでも乾いてきてるようなきがした。
「Pちゃん…。あれ?」
 が後ろを振り返ると、良牙がいたはずのタオルの中身はもぬけの殻だった。ほんの一瞬の間に、消えた?いや、そんなはずがない。目を覚まして、身を隠したというのか。でも、なぜ?
「ね、どこ?出てきて?首輪外したげるからっ」
 部屋の何処にいるかもわからない良牙に向かっては声をかけた。けれど返事はまるで返ってこなかった。ソファの下、ベッドの下、戸棚の上。覗き込んだが、姿どころから影すら見当たらないので、は急に不安になった。もしかしたらまだ夢なのかもしれない。ううん、夢どころかもしかしたら溺れて死んでしまったのかもしれない。「ねえ、でできて……」出した声はひどく掠れていて、か弱く、ただ自分自身の不安をより煽るだけに過ぎなかった。


「ひとりに…しないで…」


 ぱたぱたと、気がつけば涙が零れていた。寂しい、寂しいと、心が叫んでいる。生まれたときから乱馬と一緒だった。乱馬とはふたりでひとつで、だからいつも一緒だった。これからもずっと一緒なんだろうと思った。生まれたときとおんなじように、死ぬまで一緒だと思っていた。
 でも、きょうだいは、ひとつにはなれないんだよ。命を分け合った瞬間はひとつだったかもしれないけど、離れたらもう、ひとつにはなれないんだよ。
 床を濡らしたなみだのしずくは、どんどん多くなるばかりで、とめどもなかった。ひとりはひどく不安定だ。だから人はぬくもりを求めて、誰か傍にいて欲しくて、人を好きになるんだ。人を愛して、寂しい心を埋めようとするんだ。
 ついこの間まで、の寂しい心の部分には、家族がいて、そして乱馬がいた。知らない間はそれで満たされた。それだけですべてだと思っていた。でも、好きな人ができて、その人から想いを返してもらったね。そうしたら寂しい心の部分はすべてが良牙になって、良牙じゃないと満たされなくなってしまったんだ。
「良牙くん…」


 くしょ・と、部屋の隅から小さなくしゃみが聞こえた。はそっと音の聞こえた方に足を向けた。ふたつある白いベッドの奥のほう、まくらの後ろがもぞもぞ動いている。じっと息を潜めている気配を感じながら、はそっと、そのまくらを取り払った。
 隠れているのが見つかった。それがわかったのか、プキ・と、小さく鼻を鳴らした黒いブタはバツが悪そうにを見上げた。それを見てホッとしたのはで、その安堵に心を落ち着けては良牙を抱き上げ、ソファに座った。



「今、首輪外したげるから、大人しくしていてね」
 さっきと同じようには良牙を膝に乗せた。首についている細いベルトは、白鳥が好きそうなピンク色をしている。これと同じものが人の姿である良牙にもついていたなんて、思い返してみれば滑稽だった。そう思わず笑みが零れるのは、たぶんもう、白鳥との試合が終わったからだ。そうでなければ、こんな誰かの所有物みたいな証、気に食わないに決まっている。しかし、試合・だ。試合は試合で決着がついたというのに、いつまでも戦いをやめようとしなかった良牙と乱馬。あんなの、ケンカじゃない。
「…………」
 首輪を外してやろうと、鍵に伸ばそうとした手を、は軌道を変えてテーブルのほうへ持っていった。湯飲みの中のお茶はぬるくなってしまった。だが、急須の中のお湯はまだ熱い―――、から。


「あっ、つーーーーっっ!!!?」


 急須のお湯を、迷いなくは膝の上のブタめがけて注ぐと、そのお湯の熱さにブタは飛び上がり、その湯気の中でみるみるうちに人へ姿変えた。うん、ちょっと熱かったよね、お湯。膝の上に乗せたままお湯をかけたんだ。少なからず、の膝にもお湯がかかってしまった。
「あっ」
 元の姿に戻った良牙に、ぐら・と、体勢を崩されは思わず後ろに手をついた。かけたお湯の水滴を滴らせながら、の膝の上には今、良牙がいる。
「……………」
「……………」
 なにか言うだろうかと、は黙って待ってみたが、良牙からは一向に口を開く様子はない。ただうろたえ、なにを言おうか言うまいか、考えている。あんまりそうして黙っている時間が長いものだから、まさかまだ自分がブタのままだと思っているんじゃないだろうかと、一瞬思ったがおそらくそんなことではないだろう。ぎゅっとつぶった目が、なにかを恐れている。私・か、とはぼんやり思った。
「……………」
 ふ・とは溜め息をついた。瞬間びくりと身体を強張らせた良牙の肩に、そっとタオルをかけてやれば、恐る恐ると目を開いた良牙がを見上げた。不安に満ちた、目。それはさっきまで、冷たい水の中に落ちる前のが始終していた目だ。
「そのままだと、風邪…引いちゃうよ」
 声をかけた瞬間、ぶわ・と、本当に溢れるように良牙は涙を零した。後から後から滝のように流れる涙に呆気に取られたはもう、自分の心の中に渦巻いたもやもやした複雑な気持ちなどどうでもよくなってしまった。手を伸ばしてタオルで涙を拭い、あやすように頭を撫でれば、良牙は嗚咽さえ引っぱり出して泣いた。









 


2007/6/6 アラナミ