18











 うっうっ、ひっ、えっ、えっ。涙でぐちゃぐちゃになりながら、ずっと良牙は泣いていた。まるで子供みたいな泣き方に不安を覚えないわけではないだったが、それを口にすることはなかった。ただ、一番最初の泣き始めよりは随分落ち着いたと思う。石油ストーブの鈍い赤い光の前、ソファに座らせた良牙はタオルにくるまり、鼻をすする。真正面に向かいあっているわけではなく、やや斜めに、座りながらも二人して向きあっていたから、時折素肌の膝がお互いにこすれていた。ぽんぽん・と、最後に2回撫でた頭から手を引き、今度こそは鍵を手にした。立ち上がり、良牙の背中の方に回り込み、ソファの背もたれの方に膝を立て、良牙の首にそっと触れた。一瞬疎んだ良牙は不安そうにを見上げる。
「外すだけだよ」
 ぽつんと涙がまた下に落ちたのを見て、は良牙の首にかけられた首輪の鍵を、外した。カチリと音がして、戒めを解かれたそれは重力のまま下に落ちた。ぴったり肌に密着していたせいだろうか、首輪がついていた肌はやや赤く、熱を孕んでいるように見えた。くっきりと首周りに刻まれた赤に指を滑らせば、当たり前の体温の温度はあっても、特別な熱は感じなかった。むしろ、その体温すらやや冷たく感じられて、はそっと腕を回し抱きしめるように身体を寄せた。けれど、一瞬身体を強張らせた良牙は、疎むようにの腕から逃げ一歩分の距離を引いた。大きく後ろにずれたソファがと良牙の間で音を立てる。良牙の目からもう涙は引っ込んでいた、だがその代わりに無性に泣きたくなったのはだ。


「……ごめ、ん」
 なにを謝ると言うのか、ごめんという言葉はそれだけでは抽象的過ぎてわからない。疎んだことか、それとももっと、別の、なにか・か。
「………ごめん」
 戦慄くくちびるを噛み締めて、は良牙を見た。決して合わせようとしない目が悲しくて、言葉が詰まる。だからまたは近づいた。けれど、それから逃げるように良牙は後ずさり、遠のく。
「わ、私が嫌いになったのっ!!?」
「違うっ!!」
 出した声は震えていた、そっと出したと思った声は荒く掠れてしまった。頭が熱くてぼうっとする。そう思ったら頬に熱いものが流れ、やがて流れたそこに熱を奪われひときわ涼しくなった。
「違う…んだ」
「あっ、」
 伸ばされた手に、は乱暴に引き寄せられる。強く、抱きしめられる腕の中で、は良牙の声を聞く。違う、違うんだ。君を、嫌いな筈がない。けれど良牙は苦しそうで、そしてもまた苦しかった。心が、とても。


「オレは…っ、どうしたって、乱馬に敵わない…」
 いつだって・と、おののくような不安を良牙は吐き出した。「いつだって、君の一番傍にいるのは、乱馬だ」いつだって、君が頼りにしているのは、乱馬だ。がつん・と、頭を殴られたようなショックを、は受ける。そんなことないなんて、気休めは言えなかった。
「だって、乱馬は家族よ……そんなの当たり前じゃない」
「でもっ!!!」
 それでも嫌なんだと、を抱く腕に力を込めた。離したくない、ずっと傍にいたいと、一番で、ありたいと駄々をこねる。すすり泣く良牙の涙が、むき出しのの肩に落ちて滴っていく。
「一緒にいたくて―――、君を、騙して、オ、レはっ……」
「そんなのっ、私知ってたもん!!!」
 知ってたもん・と、反芻する。勢いに任せて吐きだしたの言葉はあんまりにも衝撃だったろうか。恐る恐る顔をあげ、良牙を見る。ぐずぐず鼻はなっていたが、だが良牙の目に溜まっていた涙は一筋零れただけでそれから後はなにも零れなかった。引っ込んでしまったのか、ただ、今良牙は目を瞬かせてをまっすぐ見た。やっと重なった視線にほっとしたのも束の間で、はこの勢いがなくならないうちに全部言ってしまおうと思った。
「知ってた。知ってたけど、だって…!!!」


「一緒に、居たかったんだよ…」


 かあ・と、良牙の顔が赤く染まって、それを見たもまたつられるように赤くなった。一緒にいたかった、だから騙しててごめんね。一緒にいたかった、だから知っていても知らないフリをしていたよ。二人の言葉と気持ちの根底は一緒だったと、気がつけばもうふたりはますます赤く火照るばかりだ。
「それに…」
 はええい・と意を決し、少し上にあった良牙のくちびるに自分のくちびるを押し当てた。水から上がって間もないようなふたりだ、くっつけたくちびるはやけにぴったりと密着した。
「良牙君は、私の王子様なんだから」
 ずっと傍にいてね・と、は笑う。そんなに、良牙はまたぼろぼろと泣いてしまうのだ。だけどそれは悲しいわけではなかった、ただ嬉しくて。ひとりでぐるぐると考え、どうしようもないほど絡まってしまった糸がゆっくり解かれていくような感覚。一緒にいたいと思っていたのは良牙だけじゃなかった。傍にいたいと思ったのも、離れたくないと思ったのも・だ。
 ふいに良牙の脳裏に甦ったのは、あの勝負の最中に乱馬から言われた言葉だった。どうせひとりで深刻に考えて、ひとりで不幸しょって、ひとりで自己完結させようとしてんだろっ!!!頭に血の昇っていたあの時は、知った口を・なんて思ったりもしたが、だがたしかに乱馬の言うとおりだったのだ。だって今こうして、は良牙の腕の中にいるのだから。


「あの…ちゃん」
「なあに?」
 大きい身体でもじもじと、なにかいいたげに良牙は恥ずかしそうに口ごもった。それをはじっと待った。ちらちらとこちらを見る良牙は、ひときわ顔を赤くさせてから、こう言ったのだ。
「試合に賭けられてた君の―――キス、なんだけど」
「さっきしたでしょ?」
「さっき!!?」
 ガン・と、見るからにショックを受けた顔で良牙は目を見開いた。赤くなったり青くなったりする良牙に、はくすくす笑って、その額と額をこつん・とくっつけた。
「キス、したかったらいつだってしていいのよ?」
 それとも、私にしてもらいたかったの?と、が聞けば、もうこれ以上赤くなりようがない顔をもっと真っ赤にさせた。そうか、図星なんだな・とは思い、また口を開いた。
「だったら、キスしてって、言って?」
 ね・と、は顔を近づける。良牙がなにかを言う前に、そのくちびるを塞いで。一瞬うろたえた良牙だけれど、だんだんと落ち着きを取り戻し、の手に手を重ね、指を絡めた。すぐ目の前にあるくちびる同士を、離して、くっつけて、離して、またくっつける。それは得てして感情なく見ればただのくちびるで、身体の部位の一つだった。けれど今とても単純な動きで交わされるくちづけは気持ちとか、なにかあたたかいものを受け渡しているようで、それだけでも良牙も幸せな気持ちになれるのだ。
「君が好きだ、すごく」
「うん、私も、好き」


 静かな室内には、ふたりのくちびるを重ねあう音しか、もう、聞こえなかった。









 第五部へ→


 読まなくても話は通じるこの後のふたりの話はこちら(※注 エロ)→


2007/6/9 アラナミ