03










 気が付くとは視界一杯にひろがる青空を見ていた。ふわふわと頬を撫でるそよ風に起こされ周りを見ると、あたり一面は瑞々しい緑の草原が広がっている。


「あれ?」


 これは一体どういうことだろうかと、は頭を傾げた。どうしてこんなところにいるのか、そもそもここがどこであるのか、は見当がつかない。


ちゃ〜ん」
「ん?」


 呼ばれた声に振り向くと、遠く離れた草原の向こうから良牙が手をふってこちらへ向かって走ってきている。にこやかに笑っている良牙はとても嬉しそうににこにこと笑い、ぐんぐんこちらに近付いてきたので、も立ち上がって大きく手をふった。


「良牙く〜ん」
ちゃ〜ん、俺、この変態体質が治ったんだ〜」


 嬉しそうに笑いながら走ってくる良牙は、さらに言葉を続ける。


「男溺泉に落ちて…それで……」


 ゆらり、と良牙の身体の輪郭が揺らめく。は目を瞬いて良牙を良く見るがそれは気のせいではなさそうで、みるみる良牙の身体の形を変えていった。


(猫溺泉に落ちたんだ!)


 ゆらり、と良牙の輪郭は猫のものとなり、黄色いバンダナを首に巻いた黒猫がへ目掛けて走ってきた。


「う、うそっ!!!?」


 半分なみだ目になったは慌てて踵を返し、走り出す。けれど猫良牙との距離は縮むばかりで、力いっぱい走っても逃げ切れそうにない。気が付けば穏やかな緑の草原だったはずの周りの景色はどんよりと暗く、岩肌がむき出しになった渓谷へと変わっていた。


「あっ…」


 息を切らして全速力で走ったが、はとうとう追い詰められて行き場のない崖っぷちへと来てしまった。崖の下は底の見えない暗闇で、落ちたらひとたまりもなさそうだった。けれど、を追いかけてきた黒猫良牙は嬉しそうに尻尾を揺らしてを見上げている。


(ちゃ〜ん)


 嬉しいような、悲しいような、怖いような………………否、恐怖の気持ちで一杯になったは溜まらなくなって口を大きく広げた。
「きゃ…」








 うぎゃーーーーーー








 ぱちり、と目が覚めたは素早く起き上がり、額を伝う汗を拭った。肩で息をしながら横を見ると黒い……子豚が一匹、心配そうにを見上げている。
「…良牙君」
 ほっと胸を撫で下ろしてPちゃんを抱きかかえ、もう一度確認するようにまじまじと見る。どこからどう見ても子豚であって、猫ではない。
「よかった」
 心底安堵したは大きく息を吐き出し、あれは一瞬の間に見た悪夢だったんだと気がついた。一瞬の悪夢から覚めて安心したは、けれどもう一度頭を傾げる。
「でも私、誰かの悲鳴で目を覚めたような気がするんだけどなー」
 疑問符をいくつも頭の上に浮かべていると、の手の中から抜け出したPちゃんが「ぶい」と言いながら廊下を駆け出していった。ついて来いということなんだろうか、よくはわからなかったがは走り出すPちゃんを追いかけた。誰もいない居間を飛び出し、庭に面した道場横へと曲がっていくとそこでPちゃんはぴたりと止まった。家族全員が集まったそこの中心には半裸の乱馬が猫に怯えていた。


「弱点て……ネコ…?」


 小さく呟いたあかねの声には瞼を伏せてうな垂れた。もの言いたげなあかねの視線が寄せられて、はとうとう観念した。たぶんこういうのを、年貢の納め時っていうんだ、きっと。






***






「さよう、あれは乱馬が10歳の頃であった…」


 天道家の居間へと集まった全員が湯飲みをひとつ目の前に持ち、神妙な面持ちで語り始める玄馬の話に耳を傾けていた。乱馬とはただ黙り、沸々とこみあげる憤りを押さえ込んでいるのだけれども。


「猫の好物のチクワを身体に巻きつけ、腹を減らした猫の大群の中に放り込む……」
 という猫拳の特訓をしたという玄馬の言葉に、あかね達はみな驚いた顔をしてみせた。そりゃそうだろう、あれは涙も血も滲んだ特訓だった。横に座っている乱馬を見れば、じっと耐えてはいるが膝に置いたその手はわなわなと震えていた。恐れではない、これは玄馬に対する怒りだ。
「これがそのときに参考にした文献なのだが…恐るべき罠が隠されておった」
 不可思議に文献を覗き込む早雲おじさんは、"腹を減らした猫の中に放り込む"という文献の中の一文を見て「これが?」と聞き返した。問題はそこではない………。
「などという特訓は全く無意味なのでせぬように………」
 早雲によって読み上げられた一文に、乱馬の瞳に怒りの炎が宿ったのをは見た。


「いやまったくしてやられた」
「このくそおやじ!」


 悪びれない玄馬に乱馬は怒り心頭だ。声を荒げた乱馬はついでに手も出して玄馬を非難したが、転んではただで起きないのが玄馬だ。すかさず花千代を乱馬へと投げつけた。といえばもう早々にふすまの向こうに避難し、傍観を決め込んでいる。


「信じらんない。乱馬君がたかが猫に怯えるなんて」
「本当は平気なんでしょう?こんなに可愛いのに…」
 きょとんとした表情で、次々と乱馬の元へ猫をもっていくなびきやかすみ、早雲を遠目で見ながらは心の中で合唱した。南無阿弥陀仏。


も猫が嫌いなのね?」
「えっ……」
 いつの間にか隣に立っていたあかねに声をかけられ、は驚く。柔和な雰囲気で佇み、にっこりと笑ったあかねは何故だかちょっと怖い。
「水臭いわね」
「えへへへへへへへへへへへへへ」
 あかね同様にも笑って返すが、さらににやりと笑ったあかねは腕の中に子猫を抱いてへと一歩近付いた。
「ひいっ!」
「あ、やっぱり怖いんだ。さっき怖いものなんてないって言ってたの、嘘だったのね」
 こおんなに可愛いのに・とでも言わんばかりの表情で、あかねはじりじりとの距離を詰める。ふすまの向こうでは、身体いっぱいに猫を乗せた乱馬が立ったまま気絶をしていたので、兄弟揃っての猫地獄大ピンチと相成っているわけだ。なんちゃって冷静に状況を見てみたが、だらだら背中を伝う汗はとどまることを知らない。


「にゃ〜ん……なんちゃってー」
「ひいいいいっ」
 びくりと身体を震わせ後ろを振り向けば、なびきが声色を似せて悪戯っぽく笑っていた。
「お姉ちゃんたらもー」
 あはは、と笑い声がみっつ上がったが、の声は乾き、そして顔は引きつっていた。それにさきほどからものすごい速さで逸る鼓動に落ち着いてはいられない状態でもあった。
「にゃん」


 するり、との足に擦り寄るあたたかくやわらかい曲線に、先程の恐怖がフラッシュバックする。
「あら、花千代ったら。ちゃんのことが気に入ったのかしら」
 かすみの声もまた遠く、意識も飛んで行きそうになってしまうが、足元に擦りつく花千代をあかねがすぐに引き剥がしてくれたせいか、気絶するには至らなかった。慌てて猫から距離をとったは、粟立つ肌を手で押さえる。


「しかしおかしいのう」
 頭をかしげた玄馬は、腕を組んでさらに言葉を続けた。
は猫拳の特訓はしてないんだがの………」


 瞬間、驚愕の表情が全て向けられ、はなにか居たたまれない気持ちで一杯になった。
「だって乱馬が追いかけてくるから………」
 恥を忍ぶように消え入りそうな声では呟いた。耳を疑うような顔で天道家の人たちは顔を見合わせていたが、玄馬だけは口を引き結び、やれやれ・というような表情を作ってみせた。知っているくせにあえて追求するなんて、とことん性格が悪い・と、は心の中で玄馬をこき下ろした。


「どういうこと?」
 言葉の意味を追求するようにあかねが聞き返したが、は苦渋の表情で首を振って答えることはしなかった。
「そのうち分かると思う」
 ため息混じりに肩を落とし、そもそもどうしてこんなことになったのだろうとは小さい頃を思い起こした。猫という存在自体においては・だ。どうしてこんなにも怖いのかなんてことはよくわからない。ひっかかれたわけでもないし、飛びつかれた事だってない。猫に対する恐怖体験をしたのはあくまで乱馬だったけれど、同じようには猫に対する恐怖心があった。


 きっと、乱馬が怖がるから……私もつられて怖くなったんだ。それでその後に起きる"アレ"によってもっと……トラウマ的な恐怖心が根付いたんだ。


 握った拳に力を入れて、は強くそう思い込んだ。













2011/3/18 ナミコ