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「なーに、ニ、三日もすれば、シャンプーの婿にして下さいと泣きつくようになるわさ」


 にやりと笑ったコロンに、杖の先で胸を突かれた。
 コロンはそれ以上なにもせず、あっけないほど潔く引いて帰っていったのだった。






「なんかあやしー」
 あの後街の中へと駆け出して行った乱馬とコロンの一部始終を聞き出したは、開口一番そう言った。
「なに言ってんだよ、思ったよりも実力のある俺に恐れをなして引いてったんだろー」
 の危惧などあっけらかんと笑い飛ばし、乱馬はふんぞり返って得意げに笑っている。ため息をついたはそんな乱馬のどこから湧き上がるとも分からない自信にジャブを打ち込んだ。
「乱馬はさー、そうやってすぐ調子に乗ってつけあがるけど、大概その後痛い目見るんだから学習しなよね」
「なんだとっ!」
「それよりさあ、あかねとはもう仲直りしたの?」
「そっ…れっ…はっ…………」
  出鼻を挫かれ眉間に皺を寄せる乱馬をあっさりとあしらって、は気になっていた話題に話をすり替える。しどろもどろになる乱馬を見れば、あかねとのことはうやむやなままにしていることは明らかだった。さきほどまでは自信満々でいた癖に、あかねのこととなるとこの通りだ。口を閉ざして指を弄ぶ乱馬は口を尖らせやや俯き、上目遣いでの出方を伺っている。


「はー…してないんだ。うやむやになる前に、ちゃんと好きだからキスしちゃいましたって言ったらあかねも怒らないのに」
「……ん?なんでそこに好きだのどうのだっつー話がでんだよ」
「え、違うの?乱馬、あかねのこと好きじゃん」
「ちっちっちっちっ………ちがーわっ!」
「あはは、照れかーくしー」
「こら、ちげーって言ってんだろ!おい!」


 6限目の体育の授業、真剣にサッカーボールを追いかけるにはもう微妙な時間で、授業終了間際の自由時間に二人寄ってひそひそ話していたと乱馬の話はいつの間にかただの談笑となってしまった。からかいながら走るに、乱馬は手近にあったサッカーボールを蹴る。背中から追ってきたそれを優雅に避けたはくるりと回って悪戯っぽくにやりと笑った。


「ん?」
 華麗に地面に着地すると、視界の横からグラウンドめがけてアクロバットに侵入してきた自転車にの意識は向いた。
「ニーハオ!」
 ロードレーサーも真っ青なくらいアグレッシブな動きで家庭用自転車を乗りこなしているシャンプーは、機嫌よさげに手を振って乱馬のところへやってきた。


「乱馬、早く結婚申し込むよろし」
「ばばあに伝えとけ、このとーり俺はピンピンしてるってな!」
「その元気いつまでもつかのー」
「ひいばあちゃん」
 神出鬼没とはこのことか、気配を伺わせずに姿を現したコロンに乱馬が驚いた。伝えるまでもなく憎まれ口の返答を得た乱馬は、グラウンド脇に転がるローラーを持ち上げ、高笑いと共にすぐさま姿を消そうとするコロンに向かった投げ飛ばした。あっぶないなー、もう。
「二度と会うか、この妖怪ばばあ!」
 上がる乱馬の声など聞こえぬように、コロンの後ろ姿は小さくなった。その向こうから、コロンとは別の人影が、こちらにむかって飛び込んでくる。宙にゆるやかな楕円を描いて飛んでいるローラーと、このままいくとぶつかってしまうんじゃないかと思われたが、その人は腕を広げたその仕草だけで乱馬が投げた石のローラーを真っ二つにし、見事にグラウンドに着地した。
 ……………………ように見えたが、重力のままに上から降ってきた割れたローラー二つに押しつぶされてしまった。


 グラウンドは静まり返り、たちを含めた生徒達の視線は一点に集中している。


「シャンプー」
 むくりと起き上がった男は、あの超重量のローラーを頭で受け止めたことなどまるでなかったかのように視線をさ迷わした。その男の口からハッキリ聞こえた固有名詞には目を潜める。よく見ればそれなりに整った顔をしているな、などと思ったことはさておき、不審がってざわめきの止まらないギャラリーをよそに、その男はもう一度「シャンプー!」と叫ぶと涙をひとすじ流しながら乱馬を抱きしめたっ。
「…ってあれぇ?」
 素っ頓狂な声を上げたはシャンプーを見たが、シャンプーは無表情に目を据わらせているだけで表情からはなにも読み取れない。
「誰がシャンプーだ、誰がっ!」
 驚きと少々の怒りを孕ませ、乱馬は男の顔を蹴り上げた。男は懐から取り出したメガネをかけて、まじまじ乱馬を見ると「……誰じゃー!!」と怒りを露に乱馬を殴り飛ばした。そしてもう一度、今度こそは間違えないとばかりに男がシャンプーの名を呼び抱きしめたのは、あ・か・ね・で…


「誰がシャンプーだ」
「なんなのよ、あんたはっ」
 乱馬とあかねの声が重なって、再び男は地に沈まされたのだった。いまだ目の据わったのままのシャンプーを、今度は正面からは見、口を開く。
「なにあいつ、あんたの許婚とか?」
 無礼を承知で人差し指を突き出して指し示した男に、ちらりと視線を寄越したシャンプーは心底嫌そうな顔で大きく首を振った。


「おらはムース。シャンプーの婿になる男じゃ」
「なに勝手なこと言ってるか。ただの幼なじみのくせに」
 乱馬に見せる甘く柔らかい雰囲気の顔とは打って違って冷たい表情に、思わずはムースを哀れんでしまいたくなった。いや、でも冷たくあしらえばあしらうほど、その冷たさに反して熱く燃え上がる恋心ってもんも存在するのかもしれない。例えばやあかねが九能をあしらうように…乱馬がシャンプーになびきもしないように…報われない恋であればあるほど燃え上がるというか、なんというか。
 なんて悶々とが考えていると、先程あっという間に姿を消したはずのコロンがの隣りに降り立ち、口を開いた。
「ムース、お前は昔シャンプーに敗れたではないか」
「あ、ばばあ」
 コロンから吐き出された辛辣な言葉にムースはたじろいだ。
「あっ、あれは……みっつの頃の話じゃっ」
「みっつの頃でも掟は掟!シャンプーの婿殿はこの男に決まっておる」
「俺は承諾してないっ」
「乱馬君はあかねの許婚ですってば!」
 メガホン片手にどこからともなくやってくる早雲に、もあかねも目を見張る。恐るべき地獄耳とでもいうべきか、はたまた偶然通りかかったのかはわからないが。はぴゅう・と口笛を吹き、茶化すような視線を乱馬に向けた。
「乱馬モッテモテだね」
「なに言ってんのよ」
 呆れ顔のあかねは、それでも最近"乱馬の許婚"であることをそんなに否定しなくなったと思うので、の顔はますます悪戯っぽくにやけてしまうのだ。


「お前許婚がいながらシャンプーを…」
「あのなっ」
「女の敵じゃあ!」
「ちっとは俺の話を聞…」
「秘技、白鳥拳!」
 急に始まったムースの攻撃に乱馬はグラウンド脇の石垣へ叩きつけられ、驚いたクラスメイト達はざわめき始めた。ひとりにやけていたも一気に現実に引き戻され慌てて目を見張ったが、すぐにその表情は引きつることになった。いやいや、まさか…でも。


「わっ、乱馬がやられた!」
「手元が見えなかったぞ」
「はくちょう……?」
「あの服の中に武器を隠し持ってる!」


 隠し持った武器…らしきものを、は見たような気がした。…あんなもん武器だとは思いたくはないが。だからこそ、いっそ見間違いであって欲しいな・なんて思いつつ、乱馬を見た。石垣に沈むように強く叩きつけられた乱馬は、眉根を上げてムースを睨みつけている。
「こんの野郎ー」
「気をつけるよろし、ムースは暗器の達人よ」
「そのとおりじゃ」
 クールに微笑するムースはひどく男前に見えたが、シャンプーの目には相変わらず乱馬しか映っていないようで、一瞥すら向けていない。
「ゆったり浮かぶ白鳥が、決して水面下ではもがく足を見せないように…おらの手元も、」


「見切れんのじゃ!」
「ふざけんなっ!」
 もう一度先程の攻撃をムースは繰り出したが、今度は乱馬はそれをぴたりと足でそれを受け止めた。けれどその手元に現れたモノに周囲は絶句し、はやっぱり・と、頭を抱えたくなった。そう、周囲の目に晒されたムースの手元にあったものは、白鳥のおまる。なんであんなもん袖の下に隠してるんだ…というか、あんなん暗器にしてるんだ・と。乱馬の目は大きく開かれ驚きの表情をしていたが、すぐに沸々とこみ上げる怒りに肩を震わせ始めていた。


「あんまもので殴られたらたまらんな」
「うん、たまらんことは、たまらん」


 後から続いたクラスメイトたちの声は、乱馬の怒りに拍車をかけたらしい。
「ゆるせねぇ!」
「やる気になったか」
 受け止めた白鳥のおまるを地面に叩きつける乱馬を見ると、その闘争心に満足したらしいムースは腕を突き出し乱馬を指差した。
「約束せい、おらが勝ったら…」
「シャンプーはやらんぞ」
「…………」


 一瞬の間が開く。浮いたムースの指先は宙を漂い、行き場をなくして彷徨った。水を差したのはコロンだったが、コロンはといえばそ知らぬふりでそっぽを向いているのだからどうしようもない。それでも声高に反論をしないのは、掟に縛られた一族ゆえにのことなのだろうか。ムースは無言のまま宙ぶらりんな指をぴたりと止め、指し示したのはあかねだった。


「お前の女を貰うのじゃ!」
「ちょっと…」
「上等だ、この勝負受けてやる!」
 あまりに勝手に言い渡された、売り言葉に買い言葉の決闘の約束に、まっさきにあかねが抗議の声をあげるが、そんなことはなかったことにして乱馬は更に声高に叫んだのだ。


「男と男の約束だ!」と。


「男と男の約束のう。しかと聞いたぞ」
 にやりと不気味に笑うコロンに気が付いた者は、誰もいなかった。






***






「冗談じゃないわよ、勝手な約束して」
 昼間のことを思い返しているのか、あかねは頬を膨らませて食卓に残った食器を集めていた。そんなあかねの横では、のほほんと笑ったかすみが集められた食器を盆の上に載せ、宥めるようにあかねと言葉を交わした。
「乱馬君が負けるわけないじゃない」
「そうだよー」
 かすみの言葉に大きく同意を示したはへらりと気楽に笑い、食卓をふきんで拭いた。


「あちあちあちああちあちあちあち〜っ!」


 穏やかに食後の雰囲気は突然響いた大きな声に壊された。不審に思い首を傾げた三人は、声の発信地である風呂場へとかけつけていった。風呂場のドアを開けると、そこには物凄い勢いで水を被っている乱馬がいた。有事かと思い、少しばかり焦ったは思わず息をつく。


「一体なんなの?」
「風呂の水がめちゃくちゃ熱くって煮立ってるみたいなんだよっ」
「お湯が煮たってる?」
 かがんだかすみが湯船にの中のお湯にふれるが、首をかしげて「ぬるいくらいよ」と言った。
「だって熱くて…」
 疑問に満ちた乱馬の声を掻き消すように水音が上がり、湯船からコロンが現れた。まるで見計らったかのように出てきたコロンのせいで、は嫌なざわめきを胸に感じた。


「もはやおぬしは絶対に湯には触れられぬ」
「げっ、ばばあ」


「あの時突いたのは、総身猫舌のツボじゃ。男に戻りたくばシャンプーの婿になれ」
「ふん、やーなこった!」


 と同じ可愛い顔で、思い切り舌を出してコロンにあかんべぇをした乱馬を見て、の胸のざわめきは大きな不安となって圧し掛かってきた。手にしたバスタオルをそっと乱馬の身体へと巻くあかねもそれに気が付いているのか、小刻みに肩を震わせ口元は些か引きつっている。


「…で、男の男の約束はどーする気?」


 恐る恐る伺いを立てたあかねの言葉に乱馬は表情を強張らせ、ようやく事の重大さに気が付いたようであった。













2012/1/30 ナミコ