恋と喧嘩はマイエラの華 1
この修道院を取り巻く環境は変わらず美しく存在し、人々の心を潤している。神に仕える子供たちの家、巡礼者の参る場所、奥へ奥へ行くほどに厳粛で偉大でなによりも誇らしい、敬える神に近きものが慈悲を与える家、マイエラ修道院。
まだそう遠くない日、手を引かれてこの扉をくぐったものは健やかに成長し、その恩と感謝を報いて毎日を過ごしていた。
不安に怯えていた子供は、もういない。碧の目の少年は騎士団団長にのぼりつめ、子供はその補佐として支えるべく副団長になっていた。
絨毯の敷き詰められた階段を上り、職務を忠実にこなす男はまさに聖者そのものだった。
清貧、貞潔、服従の誓願を正しく守り続ける修道士、騎士団員の鏡と、彼はこの修道院でオディロ院長を除くただ一人、一番神に近いものとして敬われていた。
すれ違えば、誰もが彼に敬礼し、その心をあらわした。
「ご苦労だね」
扉をかたく警護する団員に向かい、彼は微笑んだ。
「ふっ、副団長!!いえ…そんな、仕事ですから」
「頑張ってくれよ」
副団長と呼ばれた男は目の前の扉のノブに手をかける。長い間支え、支えられ、これからも変わらずその間柄でここを生きていくであろう人物のいる場所。
「失礼します」
黒髪、碧の目、神の子の家の長兄はそこに座り、職務をまっとうしている。
「ああ、エイトか。食料庫の方はどうなっていた?」
「数ヶ月はもちますが、次回収穫に間に合うかどうか。質素にしていけばこちらは問題ないと思われます。しかし今年は実りも芳しいので昨年の収穫量も期待は出来ないでしょう。今から田畑の規模を拡大しても半年先の話です。間に合わない部分は寄付金から賄い、購入をしていくしかないかと思います」
机の上に手を組み、騎士団長は頷きながらそれを聞く。組んだ手に口元は見えないけれど、言葉に小さく相槌をうつそれは、機嫌のいい証拠だ。間違いなく的を得ていることだから、きっと。
「的確でよろしい。私もそれが一番いいと思っていた」
「では、田畑拡大の申請と、その許可についての判をこちらに頂戴したく申し上げます」
「変わらず、用意がいいな」
あらかじめ用意されていた書類に騎士団長は判を押し、サインをする。
抜け目ない仕事の正確さは感心に値し、そして的確だった。エイトはふたりといない無二の人材であり、団長である彼は絶大なる信頼を寄せていた。
「このあとは仕事は?」
騎士団長の目は細められ、にやりと微笑んでエイトを見た。それは企みの笑顔だと、エイトはわかっている。
「……ドニと港に食料の相場の視察と、その後は田畑の方を手伝おうと思っておりますが」
「そうか、ならば結構」
職務と私情、この騎士団をまとめあげる男はその境界の区別をきっちりとわきまえているのが、せめてもの救いといえた。恩に報いたいと願うその心の根底はみな同じ。この男に信仰というものがあるかどうかなど、問わずとも薄々とわかりはじめているエイトだったけれど、それでも服従して従ってしまうのは、昔の手のあたたかさを忘れられないからだ。
「……エイト、こちらへ」
机を挟んで向こうにいたエイトを男は呼び寄せる。すぐ横に促してくせに歩みを進めるエイトを待つことなく男は引き寄せるために立ち上がる。
「団ちょ…」
「名前で呼ぶんだ」
「…マルチェロ」
そしてマルチェロと呼ばれた男は碧の目を満足げに細めてその手をエイトの頬に這わした。
「そうだとも、エイト」
マルチェロは頬に当てていた手を顎をつかむものとかえ、恭しくくちづけた。祝福を、と付け加えられたそれが触れるだけのものから深く貪るものとなっていっても、エイトはおとなしくそれを受け止める。
「んっ…ふ、」
息もつかないくちづけは激しく、受け止め切れなった唾液はエイトの顎を伝い、流れていった。やわらかさとあたたかさがない交ぜになると、そのあとには痺れるような疼きが身体中にはびこる。足は震え、指は力なくマルチェロにしがみつき、それでも崩れぬのはくちづけを施すその男がエイトをしっかりと支えていたからだ。
神は皆を平等に愛し、祝福を授ける。
マルチェロの言う愛や行いが、祝福ではないと充分に承知していたけれど、エイトはそれを拒むことは出来ない。一歩足を引けばまた一歩と足は追いつき、身をよじればそれにあわせて男はくちづけの角度をかえる。
「オディロ院長からことづけを賜ったんですが、団長」
わざとらしくこんこんとドアを叩いたその人は、既に内側に入り込んで絡む2人冷たい目で見ていた。招かざる銀の髪と蒼き目を持つ男。
いつの間に入り込んだのかと思うけれど、気付かないのは翻弄されていた自分だけなんだとエイトは思った。それを知っていてマルチェロは職務中に珍しくもあんなことをしてきた、それが一番しっくりときてしまう考えだから。
「お話があるそうですよ」
そう言った男に対し、マルチェロはあくまで団長として、厳しくそこに居直った。激しく動揺しているのはエイトただ一人。顎から零れた唾液を拭い、崩れそうになる足を叱咤して踏みとどまる。
「ご苦労だったなエイト。私は先にいかせてもらう」
まるで何事もなかったかのようにマルチェロはエイトに微笑みかけた。そのしぐさが、どれほど銀の髪と蒼き目を持つ彼の内心を煮えたぎらせると思うのだろうか。エイトには計り知れないそれを激昂としか呼ぶことが出来ない。
今夜 私の部屋へ
語らずして言ったマルチェロの言葉を、エイトは焦りと共に飲み込んだ。踵を返したマルチェロは銀の髪の男の横をさっさと通りすぎ、自室をあとにした。
残されたエイトに向けられる視線は痛く、視線を泳がし彼はそこから素早く出るべく理由を考えあぐねた。
ああ、そうだ、視察に行くんだった。
「失礼す、」「なにが修道士の鏡だ」
男は冷たくエイトを睨みつけ、嘲笑する。
「神に貞潔を捧げたんじゃなかったのか?」
怖い、としめつけられるような恐怖が胸のうちに巣食う。冷ややかなこの目はいつもエイトに向けられ、止まることがなかった。
その理由も、知らないわけではない。
「とんだ聖者もいたもんだな」
嘲笑の笑みは歪められ、呆れたように赤いマントと銀の髪を翻すのは、蒼の目を持つ騎士団の問題児と言われるククール。人の子の愛を乞うる、子。
彼は行き場のない憤りをもてあまし、不器用にもがくもの。ぶつけられたものをエイトは慎んで受け止めてないがしろにしないのは、それは目が離せないのだと、そう思っているからだ。その背中、姿かたち、内面の奥底に混在するものはエイトの目だけいつも見え隠れして映っていた。
誤っているわけではない、逸れた道を引き返すには遅く、飛び越えるには遠すぎた、それだけのこと。脆いまでに危うい、そのものたちを支えるバランスが自分であるならば、この位置を変えようとは決して思うはずもない。
ふたりとも、大切だからと。
聖者などでなく、修道士でもなく、神の子などではなく、ただ、人の子として。
彷徨う。
昔々、差し出された手があたたかかった。
それだけでそれをかけがえなく大切だと思うことを、間違いだとは思わない。
→
青年時代(本編)とな。
2005/1/2 ナミコ
2005/9/25 加筆修正