恋と喧嘩はマイエラの華 6






 一日の執務を一通りこなしたエイトは早々に自室へ戻ってきていた。見回すこじんまりとした共同部屋は、団員誰しもがはじめてここに来たときに与えられてから変わらない。ふたつの机にふたつのイス、それからベッドがあるだけの部屋はどの部屋もそうそう大差ない。それを見分けるのは部屋に住まう者の面々か場所か私物か、エイトはぐるりと部屋を見回して自分の私物を確認する。机の上に整然と並べた本、机の上には先日ドニの村娘から貰った手紙と、羽ペンとインク。机の引き出しの中にはつらつらと書き連ねた日記が収まっていて。
 そこから反転して向こうに目をやれば、この共同部屋を共にする相手の領域があるけれど、その私物は雑然としていながらに生活観がなかった。
 彼は――――もうずっと前からこの部屋に戻らないよう、戻らないように細心の注意を払っている。机の上は何年も前から放り投げられたままの聖書が置かれ、ほこりだけが毎日の生活の合間に少しずつ積もっていった。まるで誰もいない部屋、ただのひとり部屋のような錯覚に見舞われるけど、でも遅く執務から帰ったり朝早くに部屋を出るときに乱れたままの誰もいないベッドを見ると、ああ、確かにそこにいたいんだと思うことができた。それがただひとつこの部屋に帰ってくることを知るようで、エイトは必ず乱れたベッドを直し、そしてそれから眠りにつくなり部屋を出るなりしていたのだ。

(なにもすることがない…)

 一日を執務に費やし、終わってはすぐにシャワーを浴び、なだれるようにベッドにもぐりこむ。忙しい激務は大変だったけれど、それでもそれはたくさんの理由と言い訳になり得たからよかった。
 この部屋に戻らずにすむ、眠るために帰る部屋になっている、顔を合わせなくて――――、いい。

 初めに避け始めたのはあちらからだったと思うし、そうなるだけの理由はあった。はじめはのうちは戸惑いながらにそれでも、でも、と、思っていたのに避けられるということを体感しているうちにいつのまにかそれに倣うようにこちらからも避けてしまった。
 会ってもなんて声をかけたらいいのかわからない。絡む視線は言いたいことなど全部押し込めて深く沈めて戸惑いを引き出し眉を顰めさせるだけにしかない。それなのに同室だというのは、正直キツイものがあった。初めはあんなに嬉しかったというのに。

 エイトは手持ち無沙汰に気を紛らわせるような気持ちで机の上から本を一冊手に取った。一度読んだ本、二度も読み返せばもう覚えてしまうような内容だった。それでもないよりはマシかと、装丁された本のページをパラパラとめくった。
 疲れているのだろうから今日は早く眠れと部屋に返されたのはいいけれど、眠くはないのだ。うたたねはずいぶん長く、今までの睡眠不足を補うくらいに事足りた。それにこんな、夜も深けきらぬうちのこの部屋は、落ち着かない。

 だってエイトは知っている。
 エイトがまだ自室に戻らないことを知っているこの相部屋の相方は、まだ戻らぬうちに身支度を整えるためにこの部屋に帰ってくる。それからドニの酒場に出かけていき、完全に夜が深けきりエイトが熟睡している頃眠るために戻ってきて明け方に姿を消すか、ドニに行ったきりエイトがこの部屋を出るまで帰ってこないと。
 このままここにいたら、きっと、鉢合わせるんだろうなあ。
 そう思っても重たい腰は動かない。めんどう、とかそういうのじゃないんだ。それはそう――――、あんな、夢を見てしまったから。

「………、」
 こつこつ近寄る足音が耳を掠める。石畳の上を歩く、ブーツの足音。
来た、とエイトはそちらに顔を向け、ドアの前に寄った自然な気配を探るように一点を見つめ続けた。

 ドアが、開く。
 伏せた目と自然な表情、けれどそれは一瞬のこと。部屋の中にいる、いつもはいない筈のエイトの姿をとらえるとククールはあきらかに眉根を寄せ、それから絡んだ視線を離し、出ていこうとした。
「逃げるの?」
 ぴくり、と出ていこうとする足を止め、ククールは振り向きエイトを睨んだ。その双眸には計り知れないものを窺うような気配を感じられた。二の句を待っている、と本能的に察知したエイトは口火を切ったように笑い、言葉を続ける。

「ねぇ、あの日からずっと、オレから逃げてるよね」
「逃げてなんかないさ、ただオレはあんたが――――」「嫌いなだけ?」
 その言葉を言い、そして言われちくりとする胸、それがあるだけで胸から嫌悪は沸きあがり、不快だった。未だ痛められるそれこそ、なにより根底にあるものを否定できず存在させるを得ない理由となってるじゃあないか。
 無言のまま立ち、動こうとしないククールの手を取り、中に入るようエイトは促した。
「ここはオレの部屋でもあるけど、君の部屋でもあるんだ。知っているだろ?」
「当たり前だ」
 一度手に取ったはずの手はぱちんと弾かれ宙をさまよった。エイトはただ苦笑いをはりつけ、払い除けられた手を小さくさすった。

 ククールが部屋に入り、エイトがまた本を読む。それはお互いを背中を向けながらのことで、干渉なんかしてもいなかったのに、間の空気は重くため息のつきたくなるようなものだった。
 ベッドに寝転びなにをするでもないククールと、机に向かい明かりの下で本を読むエイト。そういえばあの時もこんなんだった。静かで重い空気、ククールの苛立ちとエイトの装い。なぁでもなく、おいでもない。ただ本を目を向けていたエイトを引き剥がして、それから。
「嫌いならなんであんなことしたんだ」
 自然に口をついて出た言葉にエイトは自らの目を見開いたけれど、それからゆっくり目を伏せ、乾いた唇を舐めてから俯き黙った。後ろからはベッドのスプリングが軋む音が聞こえ、ククールが起き上がったことを知らしめた。それからフッと鼻で笑うような気配を感じた。笑われて当然といえば当然だ、なぜ今さらと。けれどそれは聞いておかなければならないことでもあったのだ、今も、昔も変わらず胸に巣食うわだかまりがある限りは。

「憎かったから」
 声がふり、腕が伸びた。俯いていながらにしてもそれくらいのことはわかった。伸びた腕の指先が首筋をぴたりと這う。スウェットの手袋をしたままのそれの感触は妙に肌に張り付いて気持ちが悪い。それはゆっくり撫でるように首に回される感覚に肌をあわ立たせながらエイトはぼんやりとこれから起きるであろうことを享受しようと目を瞑った。
 首を絞められる。
 ぐ、と指先に力がこもると声帯が強く締め付けられていることを感じることができた。気管から通り抜けるはずの呼気は強く締め付けられる指のせいでうまく出入りをしない。
 憎かったからと、彼はそういった。憎かった、とはつまりまた、あれもあてつけだったとでも言うのだろうか。呼吸もできず苦しくなる一方のくせにどうしてだか後から後から笑いはこみ上げ噛み殺せない。締め上げられる指の間で声帯を震わし、エイトは搾り出すように笑った。
 首に回された指がうろたえ戸惑い緩められていく。
 ああ、ああ、なんてことだ。この兄弟は、お互いを厭ってやまないこの兄弟は、それゆえに立ち回りし続ける兄弟は、嫌なくらい酷似している。

「あてつけ……なんて、結局あてつける相手のことしか、…考えてないのにっ、気になって、気になって、嫌いでも、憎くても、気になるからあてつけてっ……、」
 笑っていたはずなのにいつの間にか取って代わってほろほろ零れる熱い雫に、やがてエイトがのまれそうになり、声をこらえて唇を噛み締めても熱くなった心臓はのまれざるを得なくなり、やがて嗚咽と涙がとまらずしゃくりあげたはずみにエイトは喉に引っかかっていたいつまでもとどめておくはずの言葉を口にしてしまった。
「………っ……、てつけに……つかわっ…た、オレは………ッ、こんなに……」
 あんたが好きなのに。
 消え入りそうにつむいだ言葉は、本当はずっと沈めておく筈のものだった。それに気付いたときはじめて瞑っていた目を開き、彼の驚きの表情を目にした。この言葉が嗚咽にかき消されてしまえばよかったのに。

 嗚咽のせいか、それともまだ絡み離れきらない指が震えているのか。ぴたりと噤んだ唇から声は出ないから声帯は震えない。なにが震えているのだろうか、それを判断するだけの冷静ささえ、今のエイトには事欠いていた。
 深く息を吸うとひゅう、と音をたてて気管から酸素が送り込まれていった。
「……お前は…、あいつが、」
 震えた声と怯えたような目で彼はエイトを見た。視線はあてもなくさまようように行ったりきたりしている。溜まらずこみ上げる嗚咽に、それでもエイトはゆっくりかぶりをふる。違う、と。
「あんたの口から出るあの人のことなんか、聞きたくない……ッ」
 震える指先が涙をすくってくれればいいと思う、戸惑う目がまっすぐ自分だけを見てくれればいいと思う、そしてそっとくちづけをしてくれたらいいと思う。頭に浮かぶのはそんな願いばかりだった。目の前にいる彼にこんなにも打ちのめされ握りつぶされそうなほどに胸が痛いのにそれでも本能的に求めてやまないことを恨めしく思う。

 彼へのあてつけとエイトを欲したのは彼の兄で、そうとも知らず彼の兄が欲したエイトに手を出したのは彼の彼の兄に対するあてつけで、そして自分を欲した彼の兄に応えたことは彼に対するエイトのあてつけだったから。
 とまどいがちに指先はエイトの顔を包み、恭しく口づけた。唇はかすかに震えて、いた。





 


2005/6/19 ナミコ
2005/9/25 加筆修正