マイエラに燃ゆる 1






 万年筆の紙を滑る音と書類をめくる音だけが静寂を破る執務室はいつもに増して静かだった。今日、この場所にいるのは自分だけだからかもしれない。
 一日にこなす書類の数といえばきりがなく、今日やるべきすべてのことが終わったとしても、一週間前から机にのぼっている明日のうちに処理しなくてはならない書類が片付いたわけではない。
 二、三日前に余裕を持ってそういうものは出した方がいいんですと、いつもやわらかに微笑む彼は今日はここにいない。団長に任されるべき仕事を区分し、やりやすいように補佐しては自分でできると判断したことはすべて処理してくれる彼には正直助かっているし、信頼もしている。だから珍しく机の上でうたた寝ている彼を見たときはそれを微笑ましいと思いながらまた、しまったと眉を寄せて苦虫を噛み潰した。
 マルチェロは連日彼を呼び出しては身体を重ねていた。毎日自分と同じくらいの時間を執務にあてているとはいえ、終日デスクワークにつきっきりのマルチェロに比べたら彼はその他に外回りも管轄として動いている激務だというのに、まともに睡眠も与えてやれなかったと、緩慢になる腕とペンを叱咤し、いつもの数倍の速さでもって今日やるべきすべての書類を処理した。そして目を覚ます彼に今日はもう終わったからと、部屋に帰したのだ。
 気配りがきき、そして責任感の強い彼はそのような嘘は容易く見破るし、人のことばかり考えているから仕事が終わってないとなるとまだ、とか自分も、などとすぐ口にする。
 そんなことではいいように利用されると言ったら嫌なことは嫌と言うからいいのだと笑ったのだ。あれでなかなか芯は通っている。…そうでなければ、こんなにも――――……いや、なんでもない。


 マルチェロはひとつ息をついて部屋を見渡した。
「随分広く感じられるものだ」
 自然とつぶやいた言葉にマルチェロは史実を確かめる文学者のような律儀さでこの執務室が自分のものになったときのことを思い出した。
 団員達の相部屋とは違い、執務をするためにあつらえられた広い一人部屋。
 しかしその部屋が広いと思えたのは数日の間のことで、あとはもう団長に任されるべき仕事を目の当たりにしていけば、それがいい意味でも悪い意味でも公私を共にしていかなければならない、切り取られた仕事部屋兼自室という狭さを感じざるを得なかった。
 ふむ、と喉元に手を滑らせる。根を詰めて仕事をすれば、疲れるし一息入れたいと思う。当然のことなのだ、これも。マルチェロはついにため息をついて欝陶しげに書類をつまんだ。
 いつもなら、こんなふうになる前にエイトは紅茶をいれてくれ――、書類が汚れないようにと配慮した夜食を作って――、無理しないで下さいと微笑んで最後までつきあって――、そして最後に――……

 はぁ、ともう一度ため息をついてマルチェロは書類を書き進めた。終わったからと部屋に帰したのに、実は終わらなかっただなんて、そんなことが知れてしまったらまたエイトに気を使わせてしまうではないか。
 マルチェロはふとやわらかい気持ちになって微笑む。
 そして再び終わりの見えない書類の、終わりへ向かう確かな一歩のために万年筆を滑らせた。





 


2005/6/28 ナミコ
2005/9/25 加筆修正