マイエラに燃ゆる 3






「最近根をつめていたと、マルチェロから聞いておったのでな」

 柔らかに微笑んで紅茶をすする院長に、エイトははにかんでみせた。恐らく団長が口利きをしてくれていたのだろう。
 その心遣いと優しさを、単純に嬉しいと感じていたのはいくつぐらいまでだっただろうか。優しくされるのも気を使ってもらうのも、嫌なはずはない。誰だってそうだ。そうして大事にしてもらい、好意を寄せてもらえることを嬉しいと感じるはずだから。
 だけれどエイトははにかんだ笑いの向こうに苦しさを感じている。好意を寄せられ、あてつけのためだったとはいえそれに応じてきた。だからこそ自分がした昨夜からの行為は、彼に対する裏切りだったと。ただひとりの大切な人を思う気持ちを曲げられずとも、罪悪感のようなものを感じている心は、雫のように残っていたちっぽけな良心に苛まれているのだ。

 シンプルな装飾ながらに完璧さを兼ね揃えた白い皿にスコーンをとりわけ、クロテッドクリームと数種のジャムを並べた。それから小さく作っておいたサンドイッチを出し、ビスケットの瓶詰めに手を伸ばした。
「暫く私につくように言われおったか、あれはどうも一度言い出したら頑なでな」
 ビスケットを皿に取り分けようとしていた手を制し、オディロ院長は蓋を閉めるように促した。
「私ならお前を無理させまいと思っているのじゃろうが、それではいけない。あの子は自らそれを学ばなければの、誰かを慈しみ思いやることができなくなってしまう。それに、私には私付きの者たちがいる。
―――それを持ってあの子にお茶を入れてやりなさい」

「……はい」
 エイトは頷き瓶詰めのビスケットを手にし、院長住まう離れの一室を早々に退室した。
 ときにすべて見抜かれているような気がするのは、あの御人がそれだけに徳の高い僧であるからかもしれない。人となりも心も遠く及ばず、近づこうとすればするほどに自らの愚かさを知っていく、生ける神の羊。
 穏やかな人柄に甘んじない厳しさをもっておられるオディロ院長。とてもよくできた御方だ、誰にでも平等に懐を開き手を差し伸べるあの方の、信じる神とは一体どれほどまばゆいものだろうか。風に空気に陽の光に、神のひとかけらはこの世に存在する全てのものに宿るという。毎日神に触れて、そして生きているのにそれでも人は過ちを犯し、悔い改めては同じことを繰り返す。

 馬鹿だ、とエイトは思う。なんて馬鹿なことをしてきたのだろうかとも。

「如何致しましたか?」
 団長室の前で惚けたように立ち尽くしたエイトに、団員のひとりが声をかけた。
「ぼーっとしてたみたいだ、すまないね」
 エイトははにかみ団長室の扉を叩く。「誰だ」と不機嫌そうな声が聞こえてエイトは苦笑する。
「エイトです。入りますよ」
 おとなしく待っていたらきっと、入れてなんかくれないだろうから、それでは困るとエイトは先手を打ち、さっさと部屋に入り込んでしまうことにした。案の定のしかめっ面に、威風堂々とした態度でマルチェロはエイトに対峙している。

「団長にお茶をと、言われて参りました」
 瓶詰めのビスケットを見せれば、そうかとつぶやいてここに入って来たことを享受する。頑な、と仰った院長の言葉に誰もが頷くような態度にエイトは少なからずの笑みを零し、お茶を入れる準備をする。
「今日は朝から根を詰めていたのでしょう?せめて昼食くらいはきちんと摂って下さい」
「朝に摂ればそれで充分だ」
「不健康ですね」
 手際よくエイトは紅茶を入れ、ビスケットを皿に取り分けテーブルに並べた。
 そうだ、いつだってこの人は自分を大切にしない。それは彼の出生のせいだと、子供の頃は心ない団員達が影で囁きあっていたのを知っている。子供時分に、しかも自分の耳にすら入っていたのだ、本人が知らないわけもないだろうに。それでも行動を改めない姿は、まるでその心ない囁きを受け入れ認めているようなものであるというのに。それすらも、もしかしたらククールに対する見せしめだとでもいうのだろうか。自らを省みないマルチェロに、やることは違えどやはり省みていなかったククールは、ひどく似ている。自分を、ひどく厭っている。

「さあ、こちらに来て休憩を」
 促されるままに座ったマルチェロが、紅茶に口につけたのを見て、それからエイトは扉に向かった。まだ昼を摂っていないと言う彼のためになにか作ってやらなければならない。
 自らを省みない彼のためにと、右往左往するのはいつもエイトだった。そしてそれが当たり前になって、彼は自分なしではだめだと言うのだろうか。きっとそんなこと言わない。激しく心から求める心は裏腹に、冷たく突き放して本心を見せない。誰が気付くというのだろう、そんなこと、気付きたくなかった。
「簡単に軽食を作ってきますから、座っていて下さいね」
「お前には暫く院長につけと言ったはずだ」
「院長のお言葉のままに。…それにオレは団員ではなく副団長なのですから、護衛を任されるのはあまり快くありません」
「しかしな、」
 反する言葉を扉を開く音にかき消させてエイトは室外に出る。
「ではまた後ほどに」
 気付かないふりをして、離れていくのはフェアじゃないだろうか。





 給仕室でエイトは軽食にとサンドイッチを作っていた。院長にも作ったせいだろう、パンも具も少なからず余っていた。それに細かな野菜と余っていたものでありあわせのスープを作る。本当に軽食だけれど、何もないよりいいと思ったから。
「なにしてんの」
「っひゃ!」
 突然耳元を齧られるように声を寄せられ、エイトは勢いよく振り向いた。いたずらに笑う端正な顔、と認識してはどっと溢れるように驚きやらで心臓がうるさく弾んでいく。
「な、なにって…料理。そういうククールは…」
「オレ?ちょっと遅い昼食?」
 あれからエイトが行った後幸せを噛み締めてたら二度寝しちまってくいっぱぐれたとククールは言い、そろそろと手を伸ばしてエイトの身体に腕を絡めていく。
「夢だったのかとか思っちゃうわけなんだけど、今朝のエイトみたいにさあ。夢じゃないよな?」
「……夢なんかじゃ」
 ない、と言おうとした言葉はすぐに唇に塞がれて飲み込まれてしまった。エイトの咥内に入り込み、舌を絡めて唾液をやりとりする。一瞬の情熱的なくちづけはすぐに終わり、見つめられるという気恥ずかしさを体感させられる。
「誰かが来たら困るから」
「誰も来なかったら困らない?」
 まるでなんでも見通したように不敵にククールは笑う。今までは余裕なくいつだってイライラしていたのに。
 言われて熱を持ってしまった頬を、隠すことなんかできないのに、エイトは俯いて「誰も来ないところなら困らない」と言い直した。それに満足してククールはエイトの額に唇を寄せたが、料理をしていたエイトが、誰のためにそれをしていたかと考え予測したところで唇は不機嫌に引き結ばれるだけに終わった。

「…お前、あいつに昼飯まで作ってやってんのかよ」
「え、あ…うん……君にもなにか作ろうか?」
「…バーカ、いいよ。仕事なんだろそれ」
「……そうだね、仕事だ」
 だったらいいさ、とエイトの肩口に顔を埋めるククールは至極大人を装っている。このククールの、マルチェロに対する気持ちはエイトが絡むと特に執拗で猟奇的にすらなった。それでもククールはじっとこらえて耐えている。今まではずっと嫉妬で傷つけてきたとわかっているからかもしれない。
「ククール」
 服の裾を引っ張って、ククールの情けない顔をこちらに向けさせる。小さくくちづけおずおずと舌を伸ばす。好きな人に、こうして求めるように自分からキスをするのは初めてでひどく緊張したけれど、エイトは懸命に舌を絡めた。はじめは驚きに瞬いていたククールだったけれど、答えるように深くあわさって来る。キス自体は初めてではなく、むしろ何十何百と体感したはずなのに異様に興奮した。求めて応えられるということを、今初めて知ったからかもしれない。
 息と心臓が弾んで、唇を離したときはもう夢心地のような気分だった。

「腹は膨れないだろうけど、これでがまんして」
「がまん………………できねえっつの!」
 小さく舌打ちしたククールはエイトの足下にかがみ込んでジッパーをおろした。抗議の声も無視して取り出したものにククールはがっついて口に含んだ。
「ちょ、や…ッ!誰か来たら…」
 誰かくる前に終わらせてやるって、という意味合いの、言葉にならない音を発しながらククールはエイト自身に舌を絡める。執拗に焦らしながら高めていく時とは違う、イカせてやるためだけに攻めるそれは比にならないほど早くそして激流のように押し寄せてははじけようとする。けれど、誰かがくるのではという不安感がこちらに集中しきれなくて余計に焦れったさとなって先延ばしにしては快感を逃していってしまった。
「余所見すんなって」
「アア…ッ!」
 咎めるように歯をたてられてエイトの身体は弓なりにしなった。
「ちょっと痛いくらいがいいのか、エイト」
「ん、ぅンンッ」
 甘噛みするように歯をたてられ、ゆっくり先に向かってしごかれ先端を小さく吸われたとき、エイトは弾けた。ククールの喉が音を立ててそれを飲み込んでいくのにたまらない羞恥心を感じ、口を引き結びククールを睨んだ。
「そんな目したって、すごくよかったって顔は言ってる」
「こんなところでするなんて…」
「でも興奮しただろ」
 にやりとククールは笑い、エイトの服装を整える。今の痕跡を何も残さない、ただ、その一連があったことをふたりだけが知っていて。

 「早く持っていってやれよ」と、もうご機嫌に笑っているククールはすごく現金だと思いながら、エイトは素早くジッパーを引き上げ、煮立ってしまったスープを手早くマグカップに移し、サンドイッチの乗った皿を持って給仕室から出て行った。








2005/8/17 ナミコ
2005/9/25 加筆修正