マイエラに燃ゆる 7






 何時間睦みあってたんだろうか。事後の倦怠感は身体中に浸透しているし、顔が火照っていることを除いて、身体はひどく冷えていた。当たり前といえば当たり前だ、すぐ冷えてしまうようなぬるま湯に何時間も浸かって―――、していたのだから。

「、くしっ」
 ふるりと身体を震わすけれど、それでもまだ寒さは感じないのは頭がぼーっとしているせいだ。けれどそれはかなり長時間、興奮していたせいなのかもしれないけど。

「おい、大丈夫か?」
 ふわ、と頭から身体を包んだパスタオルがとても温かに感じられたことで、初めてエイトは自分の体温がいかに奪われていたかを知る。
「んー……」
 力の入らない生返事も構わず、ククールはエイトの身体から丁寧に水分を拭き取ってくれた。ぐっしょり水分を含んだ髪も同様にかき回していってくれたので、少し乱雑な掌から解放されればエイトはゆっくりと温かさを取り戻していくことができた。
 次は自分、とククールがタオルを手にするのを横目にエイトはベッドに倒れ込むように俯せになった。着替えなくては、と思うくせに身体は沈み込むベッドの感触になじんでなかなか動こうとしない。面倒だと思えば、もうこのままでいいような気さえしてくるものだから不思議だ。

「おい、なんか着ろよ。風邪引くぜ」
 まあ誘ってんなら話は別だけど、と寝転ぶベッドの端に腰掛けて、やおら覆いかぶさるみたいにスプリングを軋ませる。まだやるつもりなのか、こんなことばっか旺盛で、まるで本領発揮とでも言い出しそうじゃないか。ていうかしない、しないってば、服着なきゃなあ、眠い、っていうか暑い、…熱い?眠い?ぐるぐるまわる思考は頭の中壁一枚隔てた向こうにあるみたいに曖昧で遠かった。考えていた筈なのに、次の瞬間忘れていくみたいで―――、
「あ……」
 背中にキスを落とされた。冷たい唇が熱を持った身体に気持ちよくて、震えていく。
「エイト……」
 俯せになった身体を反転され、抱きしめ合うように腕をまわせば温かいククールの熱を分けてもらうみたいでほっとするのに。

「…………寒い」
「は?」
 言うなりエイトは力なく顔だけを俯かせた。寒い寒い寒い。指も手も腕も身体も震えている―――のは寒さのせいだった、のか?
「えーと……エイトくんー?」

 冬先に昼間といえども海に行ったことと、さきほどの長湯がいけなかったんだろうな、とぼんやり寒さに震える身体と反して熱をもってくらくらする頭に妙なおかしさを感じながらエイトはまぶたを閉じる。意識を手放しそうとか、そういうのではなかったけど、ただまぶたが重かった。まぶたの向こうで騒々しいくらいに取り乱している気配がするのに、それでもまぶたを開いてやろうと思わない怠惰さがおかしいくらいだった。

 まあいいか、眠たいし、寒いけど。と意識を眠りにもってってやれば、騒がしかった気配もだんだん白霞の向こうへ遠のいていく。深く沈むような眠りは時間を瞬く間に奪うように覆い、次に気がついたのは真夜中の誰もが寝静まった暗闇だった。自室、だろうきっと。薄月明かりが照らす部屋は自分の鼓動と誰かの寝息だけに包まれていた。後ろからふる温かな体温に、温かい、と感じ、ぼんやりとしたまぶたはゆっくり一度のまばたきをしてからゆっくり意識は沈んで、今度は朝まで目覚めなかった。




「エイト」

 ひやりと冷たい手が額に触れ、そのまま顔の上でなにかを払うように指が動いている。くすぐったい、と思う。たぶん顔に張り付いている髪を取り払ってくれるのだろうとと思いながら深く息をつく。視界がぼんやり霞んでいるのは熱のせいなのだろうか、よく、見えない。
「すまない、私がもっと気をつけていれば―――」
 低く唸る張りの良い声―――よく似ているけど、わずかなイントネーションや高低は違うものだ。ククールのそれより、もっと低い声、は。それは。
 ぶるり、と身体中が粟立って震えたのは、寒い、せいだ。きっと。耳を澄ませばしとしと雨だれの音も聞こえた。冬の雨の日は、とても寒いから、きっと余計に。
「寒いのか?」
 霞んだ目が焦点を合わそうと躍起になる。上から覗き込むのがマルチェロだと言うのならば、ククールはどこへ行ったのだろうか。明瞭さと霞の間をさまよう目で部屋中を行き来させていく。けれど捉える事の出来ない影を探すというのは随分心が疲労するものだ。落胆と不安が胸にぎゅうと押し込まれていくような気がする。ククールだって、そう感じたかもしれないのに。

「…だい、じょうぶ…です。一日寝たら、治りますから…」
 すみません、と言えばマルチェロは渋い顔をしてエイトを見下ろした。「そうか」小さく呟いた声はどこか不服げな子供に似た色を含んでいた。気付いているのか、―――おそらく気がついたのだろう、なぜ、と自問しながらマルチェロは取り繕いの微笑みを苦々しく変化させて、その意味をなくしてしまった。
「…後で誰かに薬湯を持ってこさせる。くれぐれも無理はするな」

 団長のマルチェロはため息と共に呟き、マントの裾を翻して部屋から出て行った。ぱたん、とドアが閉まる音が止んでしまえば、あとはしとしと降る雨の音が寂しく響くだけだ。寒い、とエイトは身体を丸め、関節が痛むのも厭わないで強く自分を抱きしめた。部屋も部屋の外もどこもかしこも、十字架のない場所なんて、ない。ただこうして、目を瞑り顔を背けていなければ、どうしたって目に入ってしまう。



「こら、寒いんなら言えよ。ベッドクロスくらい何枚だって持ってきてやるから」
「ククー…っ」
 覗き込んだククールを見れば、だるくて重い腕にも関わらず手を伸ばしていた。垂れた銀糸を辿るように首に手を回し、起き上がれば背を撫でてくれた。
「ん、悪かったな」
 ぎゅう、と抱きしめられてこみあげるこの嬉しさは何だろうかと不安にもなる。大丈夫だったのに、嫌いでも構わないとさえおもっていたのに、想いが通じた瞬間からどんどん次を求めてる。ククールがいないと、もう、きっと。

「なあ、腹へってンだろ?メシ作ってきた」
「ククールが?」
 ふわふわあたたかな湯気と香りを漂わせて差し出されたのは、スプーンにのったリゾット。ミルクのやわらかな香りがしたそれを口元に寄せられればおのずと唇は開く。ゆっくり流し込まれるリゾットを口に含めばミルクの味が広がり、咀嚼してのみこんだ後には舌先に微かにチーズの味が残っていった。
「おいしい」
 言えば得意そうにククールが笑い、矢継ぎ早に次を促していく。咀嚼しきれてないっていうのに、のみこめばすぐにもスプーンを寄せるククールがどこか親鳥を彷彿とさせた。

 口に寄せられたスプーンにエイトは口を閉ざしたまま、「もう、いらない」と意思をあらわにするため、首を振って答える。
「ちゃんと食わねぇと、よくならないんだぜ?」
 かちゃり、とスプーンが器に擦れた音は、食事の終わりを教える。たしなめるようなククールの言葉も、結局は建前のようなものでしかなかったらしく、早々に引っ込めてサイドテーブルに置かれた。
「食ったらもう寝ちまえよ。腹減ったらまたあっためてきてやるしさ」
「優しいんだね」
「そうか?」
「そうだよ」

 今までが嘘みたいだと、茶化すように笑ってやる。そうするとククールはバツが悪そうに笑い返した。
 罪悪感を感じているのだ、無意識にこの男は。この優しさはもう自分を裏切らないのだと確信を得た理由はなんて哀しいものだろう。それでもいいと思うのは、注がれる愛や想いだけが欲しかったわけではないからだ。共に生きたいと思ったからだ。

「眠るまで、ここにいてくれる?」
 勿論さ、ハニー。と、唇が言葉をかたどった。ベッドのすぐ隣に椅子を引っ張って、覗き込む顔。優しい、どこまでも優しいククールに、エイトはほっと安堵した。マルチェロに向き合うと、どうしようもなくざわついて心は不安を覚えるというのに。

 それは多分、エイトがふたりに求めるものが、それぞれ違うせいでもあるのだろうけど。

「君とオレが今こうしてるみたいに、…なれるよ、」

 言葉尻に出た固有名詞は、まるで出て行く力を失ったように喉奥に吸い込まれていった。それが無意識にそうしてしまったのか、ククールの唇が重なったせいかどうかはわからなかった、けど。

「兄貴?お前とこうしてるみたいに?」
「………それは―――なんか君、やっぱりまだちょっと意地悪だ」

 にやりと口端をあげたククールは冗談めいて笑い、その中に本音を隠してうやむやにしてしまった。
 ああ、でもその言葉は少し聞き捨てならなくて、ぴくりと反応したこの心のなんて醜いことを知り、エイトは自分に嫌悪した。きっとこんな気持ちを、ずっとふたりに与え続けてきたと言うのに。それでも尚貫き通そうとする、これは。

「オレは君が好きだよ。でも同じくらい君のお兄さんも大切に思ってる。……嫌かい?」

 静かな部屋でエイト自身の声だけがぽつぽつと紡ぎだされていく中、澄んだ青の目がしきりに騒いでいた。気を抜けば赤く揺らめきそうな色を、必死で堪えているのだろうか。

「君が嫌だというなら、オレはあの人とそういうことはしない。けれどあの人に欲しいといわれたらやっぱりあげたいって思うんだ」

「これは我儘?」

 ああ、押し黙った君はどんなにか複雑な顔をしているんだろうか。それでもそ知らぬふりをしてふたりともを騙し続けるには、あまりにも重すぎるから、伝えることにしたのだ。愚か者の行く末は、戻りに戻ってはじまりに還ってしまうだろうか。それでもいいかと、エイトがふいに笑ってしまえるのは、もうククールの気持ちを知ってしまったからだ。

 どうか、どうか。
 理解して欲しいなんて言わないけれど、ただ、知っていて欲しい、と。

 引き結ばれた唇と、力の抜けた肩。ふう・と、嘆息が落ちては共に、銀糸もさらりと流れて落ちた。
「三人で家族になりたいって、お前はそう言うんだな」

 最後の最後でぽきんと折れた、その枝をどうか大切に扱ってくれと、祈るようにククールはエイトの掌にくちづけた。頑なにまっすぐ譲らない、強固なそれは消えることのないひかりのようなものだった。
 ひかりだと、思いたかった。

「うん」

 あてつけがましい態度を返してみれば、それは深い深い思慮と恋慕、だったのかもしれない。揺らいでいた瞳は、強く青を取り戻して横たわるエイトを見下ろしていた。








2006/3/14 ナミコ