デイジーを胸にカナリアは






「退屈だなあ…」
空を仰ぎ、ぽつりとつぶやいたその言葉に、そこにいた見張り兵がこちらに目を向けた。
「そんなことを仰られて、姫様は昨日も城下町にお忍びで行かれたとか。大臣が小言を申しておりましたよ」
かすかな苦笑を含んだ言葉に、エイトはため息をついた。幼少の頃からここに通いつめ、限りある世界を見渡しているエイトの姿はもうここにあって当然のものとも言えた。
そしてその見張り塔のてっぺんに配置され、国を守る見張り兵とも親しくあるのはここに配置されるごく少数の兵士とエイトとの秘密でもある。
何故かと言えばそんなことうっかり口から滑らした日には大臣ないし、国王に見咎められ出入り禁止を命じられる決まっているのだ。現国王の亡き兄君であられるエルトリオ太子、その忘れ形見の娘とあれば当然真綿にくるむように優しく慈しんで育てられてきたというもの。
実際生まれてこの方18年、エイトはこれでもかというくらいぬくぬくと箱入りに育てられてきた。どこに出しても恥ずかしくない礼儀、立ち居振る舞い、そして持ち前の優しさと清純そうな微笑み、なによりエルトリオ譲りの端正な顔立ち。どこにも欠点などない、どこから見ても完璧なサザンビークの姫君…、それは国の誇りであり、潤いそのものであった。国王達はそんなエイトをまた慈しみ、慎ましやかに愛しんできた。
…けれどもその素晴らしく素晴らしいサザンビークの姫君というのは実はエイトの表の顔だ。早くに父親を亡くしたエイトを育ててくれた国王、つまり叔父上のためにと完璧な姫を演じてきたけれど、それでもやはりエイトにも胸の中にずっとくすぶってきた気持ちというものがあるのだ。
外の世界への憧れ、自由に生きてみたいという気持ちが。

「お城の門兵は見逃してくれるけど、さすがに街の入り口の兵は外に出してくれないし」
ちょっとくらい外を歩きたいというエイトに、見張り兵は慌ててそれを止めようとする。
「駄目ですよ、あの城壁の外は魔物がたくさんいるんです。もし怪我をなさったらどうするんですか!」
「大丈夫、剣の修行もしているから」
しれっとそれを告げると、兵は口をあんぐりと開けて言葉を失った。
そんな兵士を見てエイトはため息をついた。どんなに親しくなったと思っても、結局は彼もまた、姫であるエイトを見ているのだと、辟易とする思いを抱えた。

「…そういえば昨日耳にしたんだけど、リブルアーチに怪盗がでたんだって?」
「ああ、赤の騎士のことですね。そこらじゅうの街や国の宝庫を荒らしているらしいですよ」
怪盗のくせに騎士だなんて厚かましいと、兵士は鼻息荒く拳を握った。
赤の騎士と名乗る怪盗のことを、しばしば耳にしたことがある。小さな町や村ならともかくとして、その怪盗は警備の厳重な城の中でさえ霧のように現れ侵入すると聞く。なかなか腕も立つそうで、対峙しても鮮やかな剣さばきにねじ伏せられるのだと、遠くトロデーンの使者が教えてくれた。
そんなに腕が立つというのなら、この城にやってくればいい。ここには世界三大宝石といわれるアルゴンハートをあしらった指輪が叔父上の手におさまっているし、それに。

(私を、盗んでくれたらいいのに)

「姫様、日もまもなく沈みますし、そろそろお戻りになられたらいかがでしょうか」
夕焼けが赤く世界を照らし、そこらじゅうを真っ赤に燃え上がらせたような色をしていた。
やがて日は沈み、宵が世界に運ばれ夜へと移り変わる。その光景をここで見たらどんなに美しいだろうかと思った。だからあの時、まだ幼かった頃、それだけを見たくてここまでやってきたのに、いまだそれを見ることは叶っていないのだ。
「…うん、そうね。じゃあ、また」
もう少しだけ、と兵士にねだるのは可哀想なことなのだ。あの困った顔を、エイトは忘れられない。
きびすを返し、エイトは伏目がちに螺旋階段を下りていった。





「やあエイト、どこに行ってたんだい?」
「……チャゴス」
見張り塔の螺旋階段を下り、それからすぐの廊下を曲がれば部屋に辿り着くにも関わらずエイトは遠回りし、城内をぐるりと一周してからのろのろと自室の前に戻ってきた。その部屋の前にその人はいた。東の塔と、西の塔。ふたりの部屋は対になって反対側に位置され、用事がない限りは偶然顔を合わすこともないようになっているのに。なんでとあからさまに嫌な顔をするのも失礼かと思い、エイトはそのままの表情で「なにか?」と尋ねたのだが、もったいぶったようににやにやするだけでチャゴスは言葉を口にしなかった。
「…なにもご用がないのでしたら、部屋に戻ってもよろしいですよね」
有無を言わさずドアに手をかけると、チャゴスは慌ててエイトを引き止める。
「待て、待つんだ!!赤い騎士の話を知っているかっ!?」
チャゴスはいつもこうだった。過剰な自信を持ち合わせてはエイトの前に現れ、興味を示さないエイトに苛立ちを抱きながらとっておきのなんらかを示す。おおかたその大半がエイトにとってどうでもいいことで気にかけるほどのものではなく、そしてチャゴスの自信をことごとくへし折ってきたのだが、それはいいのだ。なにしろその自信というものは過剰な自信であるのだから、少しくらいへし折られたって分相応というものだから。
それはともかく赤い騎士という単語にエイトは振り向きチャゴスを見た。チャゴスはほっとしたような、してやったりというようなその間をいきさまようような表情で口を開き、言葉を続けた。たぶん、自信は相応に守られたはずだ。

「父上の元に予告状が届いたんだ」父上も大臣も大慌てさ、おかげで影で聞いていたのもバレいずに住んだんだ、予告状には最も美しき輝きを頂くとか―――「そんなことより、」エイトは心を押さえつけるように聞いた。
「いつ、くるの?」
「さあ。だが赤い騎士は大抵予告状を送りつけた一週間後に行動を起こすらしいとは聞いた」
心臓が早鐘のように動くのをエイトは感じていた。
つい先ほど、攫ってくれたらいいと思っていたその怪盗が、本当にこの国に来るなんて。偶然にしても、それはエイトにとって18年間続いてきた閉鎖的な生活に差し込んだ小さな光だった。きっと。少なくともエイトはそう感じていた。

「それで、僕が推測するに予告状を出してからの一週間というのは、怪盗も下見をしているんじゃないかと思うんだ」
「そう……ね、そうかもね!」
「それでだ、その……あー、うん」
もじもじ言い淀むチャゴスをよそに、エイトはもう赤い騎士がもうこの街のどこかにいるということだけに頭をいっぱいにさせていた。「あ…明日一緒に探しにでかけないかい?」と、チャゴスが振り絞って出した言葉も聞かず、エイトは王と大臣の元へ駆け出していた。





姫様っ!!!

耳をキンキンつんざく声が廊下に響いた。古参のメイドが叫んだのだ、悲痛に、今にもなきそうな声で。けれどエイトはそれすらも無視し、王の元へと急いだ。少しの罪悪感がないわけではなかった、けれどはやる気持ちは足を止めてくれなかった。
きっと後で泣きながら怒られるに違いはないだろうけど、それでもいいかという気持ちが今はあった。

「叔父様、叔父様!!」
騒々しく入り込んだ謁見室では、王と大臣が向き合って深刻な表情で話をしていたが、エイトがあらわれるのを見るとふたりともその表情を穏やかなものに変え、いつものようにエイトを出迎えた。
「今日は元気なようだがどうしたのかね」
「あ、えっと…」
はた、とエイトは言いよどむ。勢いあまって謁見室まで来てしまったものの、よくよく考えてみればこでいきなり予告状のことを聞くのもおかしく、怪しい。いきなりすぎるから言うのはやめるべきだと思い、言葉を胸に押し込めるけれどそうすると今度はなにを言えばいいのか、エイトの頭はささやかな困惑に巡らされた。
「えっと、その…ですね」
どうしようどうしようと思う頭のなか、助け舟のようにピコンと電気がついた名案にエイトは意を決し、言葉を発した。

「成人の儀式は、私はいつ行くのでしょうか」
「なにを言っておられます、姫…」
「よい」
王は大臣の言葉を制し、苦笑しながらエイトの肩を軽くたたいた。
「その言葉、実に我が息子の口から聞きたいものだ」
そしてもしもそなたが男児であるなら、喜んで見送ったものだと、クラビウス王は続けた。
「しかしそれはサザンビーク王家の成人する男子がする儀式」
「…おばあさまは成人の儀式に赴かれたって聞いたのですけど?」
「古のしきたりも形を変えねばならぬときもある。王家の山に住み着くアルゴリザードの数も年々減少しつつあるのだ」
わかっておくれと諭すようにクラビウス王は微笑んだが、エイトにしてみればそれは口を尖らせたくなるようなことなのである。大切に大切にとされていることはよくわかっている、それでも納得のできないことはいくらだってあるのだ。
女に生まれた自分を厭っているわけではない、ただ女であるがゆえに限定され、そして強いられ、守られてきたなにもかもが好きではなかった。

「代わりといってはなんだが、成人の証として今まで預かっていたそなたの父、エルトリオのアルゴンリングを授けようではないか」
クラビウス王は大臣に促し、リングの納められた小箱を持ってこさせた。
箱に施された細工は美しく繊細でまるで人の手で創られたものではないような雰囲気がした。エイトは生まれてこの方その小箱のような雰囲気を持つものに出会ったことがない。それはたぶんこの国のものではなく、父の持ち物ではなかったのだろう。母の国のものか。顔も名も知らぬ母親の影が垣間見えたような気がして、エイトは少しだけ切なくなった。
クラビウス王は慎重に小箱から指輪を取り出し、エイトの手のひらにそっと乗せた。
「世界でもっとも美しいと言われている三つの宝石のうち、そのひとつをあしらったものだ」
王家の証でそして、成人の儀式を果たした勇敢なる者の勇気のかけら。そしてただひとりと決めた最愛の人に贈る、誓いのリング。
「……ありがとう、ございます」

亡き父親からのものを受け取り、そして恐らく母親からのものである小箱を手にし、嬉しいような、しかし煮えきらぬ思いがふつふつと胸にあるような、エイトはとても複雑な気持ちのまま、謁見室を後にした。
手のひらのアルゴンリングは美しく輝いてそこにあった。
かつて父が成人の儀式の末手に入れたアルゴンハート、そしてそれはリングとなり母の指を飾っていたのだ。長く十八年の時を隔てて、ふたりの手の内にあったものがここにある。
美しく繊細な細工箱がこの国のものではないとあらわすように、遠くかすかな記憶の影で噂に聞いた母は異国の地に住むものだったという話が真実味を帯びてエイトの中に風を吹かせた。
おそらくクラビウス王はすべてを知っている。そうでなければエイトはここにはいないはずだ。しかしそれすらも推測に過ぎないのだけれど。
異国とはどのようなものなのだろうか。エイトはそれすらも知らない、けれど父も母もこの世界のどこかで出会い、そして恋に落ちたのだろう。ぱちぱちと音をたて弾けるような思いに胸は駆られる。
そして反面、ひとつの国にとどまりでることもままならない、そんな自分が少しだけ、惨めに思えた。






うららかな陽が射光する中、エイトは街ゆく人を静かにじっと眺めていた。
「エイト、なにをしている」
何度も立ち止まるなとチャゴスは文句を言いながら、それでもエイトに手を伸ばす。紳士的のようで、一歩紳士的になりきれていない不完全さは少なからずの嫌悪感をエイトに抱かせた。
手を差し伸べ、重ねられるのを待ってしかるべきそれを、チャゴスは通り越す。いきなり手をつかまれるそれは、粗雑以外のなにものでもないというのに。

なんでついてきてしまったんだろうか。
後悔は後にも先にもたたないという。浅はかだったとエイトは眉間に皺を寄せ、伸びくる手を払いのけた。
「触んないで」
大体、と思うことがある。大体赤の騎士を探しにいくという名目はいつの間にか消え去り、チャゴスの都合のままにすりかわっていたというのが腹立たしい。
お前は街の細部までは知るまい、とか僕の後をついてくればいいのだ、とか、あまつさえ店に入っては全然関係ないというのに服を買ってやるだの欲しいものはないかだの、デートじゃあないんだぞ、馬鹿野郎。

多少荒っぽく払いのけた手は思いのほか強くあらわれていた。
チャゴスの表情はみるみる怒りにそまり、まるで爬虫類が持つ特有の恐ろしさを孕んで内側にためこんでいった。
「なんだよ、お前は僕の後をついてくればいいんだっ」
「いっ…た!!」
粗雑に、それも今までのどれよりも荒く気遣うことなく腕をとられ引き寄せられる。
予想だにしていなかったせいで身構えることもできなかった、そのせいでバランスを崩した身体は無様に前のめりに大きく崩れるはめになった。
ぐ 、とこみ上げたのは大きく熱を孕んだ憤りだった。前から好きではないと思っていたけれど、今のは抱いてた感情をもっと劣悪にさせるもの。

「さ、わんないでって、言ってる!!!」
バシリと思い切り跳ね除けた。男と女の力の差はあるとはいえ、鍛えている者とそうでない者の差は歴然だ。
不意でない、意識的な部分になれば渡り合えるどころか優勢ささえこちらが持てる。
跳ね除けた反動で地べたにしりもちをついたチャゴスは驚きに目を見開き数秒エイトを見つめていたが、それもまもなく終わる。
徐々に強く怒りの色を持ってこちらを睨みつけるチャゴスの口が開く前、エイトは先手を打って辛辣な言葉を浴びせた。
「叔父様に言いつけるならそうしたらいいわ、自分の力じゃなにもできないものね!馬鹿みたいにトカゲを怖がって成人の儀式を遅らせる弱虫の臆病者の甘ったれ!私はあんたが大嫌い!!」

顔そむけ、颯爽とその場を後にしたエイトを追う者は誰もいない。きっと追う気力も生まれぬままに座りつくして呆然としているのだろうから。
嫌い、という言葉にはことほかに罪悪感が芽生えると思う。それを言っても、言われたとしても、だ。
けれど言わなければ重く嫌な気持ちになるそれを知っているのは自分だけなのだ、知らしめたっていいと思える人だって、いる。いる筈なんだ。

「毅然なんだな」
にやりと笑まして目の前に立ったのは男だった、というか男の声だった。
「麗しいだけのお嬢さんかと思ったら、勇ましい」
重い気分になんだと思う。
正直疎ましく感じるそれを、エイトは上を見上げて認識する。頭ひとつ分上にある顔の中身はとても端整でも女かと一瞬見間違えた。
「貴方こそ、深窓の美女より麗しいんじゃない?」
言葉冷たいままに嫌味をこめて贈った。男はハハ、と笑い、それから「手厳しい」と肩をすくめた。

しかし男は懲りず、そんなことよりと続ける。
ただ佇むだけのくせに妙に目が離れがたく去りがたいのは長くきらめく銀の髪が強く、印象的過ぎるからだろう。きっと。
「オレこの街初めてなんだけど、案内頼めないか?」

否か可か、委ねられて悩む自分に今気付く。
悩んでいるのか、自分は、と。
銀がゆらめく男は蒼の双眸を持っていた。そうしてさらなる印象を強め、強く惹きつけるこれをなんだというのだろう。
ふわり、と風に乗って癖のある甘い香りが鼻腔をくすぐった。香水だろうか。
印象印象印象、ほんの瞬くようなじかんの間に男は数知れない印象を残し、惹きつける。
…まるで、誘惑を、するように。

(そういえばこの男の纏う衣の色は赤だ。鮮やかな。
鮮やかな色も美しいものも、自然界ではそれは警告のものとなる。警告。しかしそれでいて美しさゆえに人は惑わされる。警告しながら誘惑するしているのだろうか。なんて矛盾)

食えない、と思いながらエイトは心を決めて口を開いた。
警告しながら誘いかける愚かなる者に、そしてその愚かなる者に承諾の言葉を口にしようと働きかける自分はさらに愚かなる者であるのだろう。
警告を知りつつそれでも踏み込んだ自分を、エイトはちゃんと自我をもって認識している。