C l a r a






 ハロウィンの3日前は、珍しく早く帰った父と一緒の夕飯だった。冬初めの予兆のように朝と夜はひどく寒く、このごろよくスープが並んでいた。今日も例外なくビーフシチューが湯気を立てて食卓に並んだ。

「明日は帰らない」
 簡潔に父は言った。怪訝そうに母が父を見ているのは当たり前のことだと思う。あたたかな食卓が一気に冷めてしまったようにぴしりと硬直したけれど、父は小さく微笑み「そう責めるような目で見ないでくれるか」とオレと母とを交互に見た。ああ、オレも母と同じような目で父を見ていたのか、と少なからず驚きを胸にした。
「代わりに明後日のハロウィンは、仕事が終わったらすぐに帰ることにしてある」
 もっとも仕事といっても、領主自ら子供達にお菓子を配るだけのセレモニーがあるだけなのだが。と、父はいたずらに笑う。とたん、糸がほどけるように硬直は消え、母の「あら、まあ。そうでしたの」と久しぶりの満面の微笑みに、オレは小さく誰にもわからないように溜め息をついてシチューをすくった。父と母は明後日のハロウィンについて談笑しているし、兄は父と母の振る話題に時折相槌を打って食事をすすめている。なんだかんだ言ったって、これは多分、しあわせの範疇に入るのであろうけれど、それでもなにか腑に落ちないのだ、と言ったら贅沢だと笑われるだろうか。

 口の中で咀嚼する肉も野菜もおいしいのに、どこか味気ない。セレモニーで配るお菓子は自分が作るのだと、母は誇らしげに胸を張った。チョコレート、キャンディ、ジンジャークッキー、マシュマロ、カボチャのマフィン「ねぇ、あなたたちは何が食べたい?」ごくん、と小さくなったかけらを飲み込めば「そうですね」と考える仕草の兄に目を取られて次のひとすくいを取り逃した。
「コーニッシュパスティとか、好きです」
 コーニッシュ、パスティ?思わず首を傾げたのは、そんなもの見たことも聞いたこともなかったからだ。それを口にした兄は知っているのだろうが、父は大して特別な反応を示すでもなくシチューを口に運んでいた。母はといえばころころ鈴がなるみたいに笑い、いやあね、とスプーンを置いた。
「あれはお菓子じゃないのよ?」
「それはそうですが…」
 母の機嫌のよい笑いはとどまらず、どこまでも嬉しそうに食卓に響いた。兄はそんな母を前に苦笑しながらスプーンを置いた。
「義母様、あなたに作っていただいたあれが、とてもおいしかったものですから」
「まあ、それは嬉しいわ。マルチェロ、貴方ったらなにが好きなのか嫌いなのか仰ってくれないんですもの。…でも、そうね」
 頬に手をあて少し考える仕草をした母は、「そうね、そうしましょ」と両手を合わせてにこりとオレ達に微笑んでくれた。
「お夕飯も、私が作りますからなんでも仰ってね。貴方も、ククールも、ね?」
 ね、と笑いかけられれば、「うん」としか答えようがないのだけれども。それにしてもコーニッシュパスティというものは一体どんなものだろうか、と思う。兄が好きだと言うくらいなのだから、そうそうゴテゴテした食べ物でもないだろうし、なにより確かにおいしいのだろう。お菓子じゃないって言っていたから、多分それと似た形容の――――――、パイとかキッシュのようなものなんだろう。どうせハロウィンには食卓に並び、それがどんなものなのかもはっきりとわかるだろうと、オレは止まっていた手でスプーンを動かして皿の中のシチューと野菜のかけらを口に含み、飲み込んだ。

「母様、パンプキンスープ作ってくれる?」
「ええ、勿論よ。ねぇ貴方はなにが食べたい?」
「そうだな……」
 母の視線は父に移り、父は少し考えるような声をして母との会話を楽しんでいる。なんだかんだ言ったって父は母を、そしてオレ達を大切にしている――――と思う。キレイな女の人とワインにはどこまでだって目がないんだけども。



 父の言葉がよっぽど嬉しかったんだろう、母は昨日のうちからキッチンに立ち多種多量のお菓子を作っては小分けし、色とりどりの袋に小分けに詰めていた。どうしたらあの母の細腕がこんなにも大量のお菓子を作れたのだろうかと思えば不思議でしょうがない。それほどに大量すぎて、母と家のメイド達を総勢しても手がまわるかどうか怪しかったお菓子の袋詰めはオレと兄もかりだされて夜遅くまでかかった。五色の透明な袋に小分けされたお菓子が少しずつ、きっちり全種詰められて、その上からオレンジのリボンをかけて。できあがった大量のお菓子の袋を麻で縫い上げた籠の中に入れて、玄関前で準備態勢。父は帰らないといっていたけれど、明日は朝早くに迎えの馬車を寄越してくれるはずだからと、母は嬉しそうに遅くなった食卓でオレ達に言って聞かせていた。

「じゃあ母様は出かけますから、いい子でいるんですよ」
「いってらっしゃい。気をつけて」
 もう十三になる子供に向かっていい子もなになあ、と思いながらククールは母の乗った馬車に手を振る。隣に立った兄も、いい子、という言葉を向けられるには少し考えるところがあるらしく苦笑した顔つきで、それでも俺とは違い、「お気をつけて」と一礼して走りゆく馬車を見送った。
 残されたオレと兄は父と母が帰ってくるまで束の間の自由を手にするわけだ―――父と母がいても大抵のことは比較的自由でもあるのだけれど。それにメイドや執事がいることには変わりはないのだ。

「(そうだ、折角だから書斎でコーニッシュなんとかって調べよう)」

 振り返って玄関口を見る。隣に立っていたはずの兄はとっくに屋敷の中に入ってしまっていたらしく、誰もいなかった。兄はとても寡黙で多くを話さない――――、少なくともオレには。兄の引き結ばれた口元をやわらかに上げさせてあげられる人は、知るところでは母だけだったと思う。

「ククール坊ちゃま、どちらへ?」
「書斎で本を読むから、なにか飲み物持ってきてくれる?」
「えっ、でも……なにか零したりしたら、父上様に叱られますわ」
「子供じゃないんだから零さない」
 ベルベットの絨毯の上をすたすたと歩き、普段は寄り付かない書斎へと一直線へ向かう。書斎じゃなくたって、自分の部屋の本棚にある本だけでも、ちょっとした調べものだったら事足りるけれど、"ちょっとした"範疇を越えてしまったら途端に意味を成さなくなる。だったら父の書斎に行けばいいのだけれど、母はまだ早いと言って入れてくれないことの方が多い。そもそも父はあれで結構神経質で秘密主義なせいか、重要な文献や資料とか、大切なものは誰にも見つからないところに隠してある――――と思うのだ。自分が、そうだから。

 ずしりと重たい木製の扉をあけると、独特の古い紙のにおいと、多少のほこりっぽさが鼻についた。けれど入り口と窓付近に生けられたバラの花がやんわりとそれを打ち消して鎮座していた。
「あ」
 書斎の奥、父が座っていた記憶しかないイスに腰をかけ、古い本を読みふけるその姿は、兄、の。
「…なんだ、調べ物でもあるのか」
 ちらり、とこちらを見て寄越した視線はすぐに書物に戻り、兄はページをめくっていった。妙な違和感、父が座っていた記憶しかない場所に、兄が座っている。
「ん……――――、んぅ、う…ん…」
 尻切れトンボに似た曖昧な言葉だった。けれど気を悪くしたでもない、そもそも返事なんかどうでもいいみたいな、声をかけたことでもうすでに事を得たような兄はあとはもう何もいわず、さも誰もいないように元通りの姿勢を崩さなかったので、こっちはかえって居心地が悪く感じられたくらいだ。いてもいなくても同じの、ただなにか与えられたぶんだけを義務的に返すだけのような、無機質な感覚。兄を、嫌いではなかった。でも好きでもなかった。ただ無機質に―――兄弟であるという、それだけの繋がりで繋がっているとしか、思えなかったから。
 ただずっと、ひやりと冷たい色が似合う兄は触れることも言葉を交わすことも、どこかおこがましいような気もしていたから。

「坊ちゃま?お飲み物はどちらに――――、」
「部屋までもってきて」
 本棚から2、3冊、料理に関することが書いてありそうな本を適当に見繕ってメイドの横をすり抜ける。もう書斎になんか用はない、オレはこれを自室でゆっくり読む、ひとりで。音が立たないようにできている廊下の絨毯の上を、それでもかろうじて聞こえるほどに歩いたなんて母に知れたらきっと怒られる、と思いながら後ろに意識を持てば、慌しく同じような歩調で走るメイドの足取りが。
「坊ちゃま!書斎から本を持ち出すなんて、お母様に知れたら!!」
「父様達が帰ってくるまでに返すってば」
 口にした言葉の冷ややかさ、心。なのに胸のうちはこみ上げるような、それでも込みあがりきれずにとどまったなにかが熱く、そこにあって。苦しい。と、表現してもいいのだろうか、認めたくない。そんな苦しさは欲しくはないのだと、思う。力任せの足取りが自室に近づいていくたびに力をなくしていく。もういい、もういいのだからと、先ほどまでとどまって熱を持ちそうにまでなったものはぷつりと途絶えて萎えていった。
「知りませんからね」
 怒りを孕んだメイドの口調、カチャリと食器のこすれあう音が耳に残った。長い黒のスカートを揺らめかせて、さっさとメイドは出て行く。初めからほうっておいてくれればいいのに、そうしたら余計な喜怒哀楽に心をすり減らす必要もないだろうに。それができないのが、命を仰せつかった使用人の性でもあるのかもしれないけれど。

「…………」
 椅子に腰掛け一口、メイドに持ってこさせた飲み物に口をつける。熱くはない、短くはないやり取りに少し冷めたカフェオレはちょうどよい熱さで、そして少し、苦かった。