C l a r a






 結局コーニッシュパスティなんてものは、あの本の何処にも書かれてはいなかった。おまけに本を戻しにいけば、馬車の車軸の道来る音に父と母が帰ってきたことを知った。たった2,3冊の本を調べるだけに何時間かかった?余計なことばかり気を取られて集中力散漫な意識は、カフェオレを少なくすることだけ精を出していた。せっかくも書斎から誰もいなくなったっていうのに、これじゃあ続けて調べることもできやしない、ああ、でも――――この地方でよく食べられている料理ではないとは、わかったけれども。

「お帰りなさい父様、母様」
 笑顔と一礼。頭をあげれば小さく頷く父が笑い、「大きくなったもんだ」と頭を撫でた。こんなときばかりなにを言っているのかと、撫でられた頭に奇妙な感覚を抱いて通り過ぎる父を見た。でかい背中だ、そりゃあ父は大人で子供の自分とは幾回りも体格は違うとわかっているけれど。
「ただいまククール、マルチェロ。いい子にしていたかしら?」
 子供じゃない、といつも思っている。けれどこの母の前ではオレと兄はいつまでたっても子供なんだろう。オレにも兄にも、お帰りのキスを頬にくれて抱きしめた。
「母様さっそく夕飯の仕度をしなくちゃ―――、ふたりともお昼は食べた?後でお父様と一緒にアフタヌーンティーを入れますからね。そうだわ、ククールのハロウィンの衣装が出来上がっているの、仕立て間違いなんてないと思うけれど一度あわせてみないと。それから―――」
 玄関先でくるくる動く母は、(一応)子供であるオレよりもハロウィンに心躍らされている子供のようで―――母を形容するにはいささか疑問符がつかなくもないけれど―――可愛らしく思えた。その証拠にくすり、と思わず笑いが零れたのはオレだけでなく、兄もまた、数歩前を行っていた筈の父もまた、同じように母に優しげな目を向けていた。
 心にぽん、と灯ったあたたかさに微笑めば、いい。言葉にすれば、いい。

 口にすればよかったのだ、取りとめもない言葉でも。なんでもいいから。噤んだ口はもう二度と同じ勇気を振り絞ってはくれないんだから。



 言葉のとおりに母は夕飯の仕度に厨房へこもりっきりだったが、三時も近くなると丘を一望できるテラスにビスケットとパイと紅茶を並べてすっかり準備を整えた状態で母はオレ達を迎えた。いつもだったらそのほとんどをメイドに任せるっていうのに―――今日はそれすらすべて母一人でやったというのだろうか。この場に姿を見せない使用人たちのそれを察すればわかるけれども、母の胸のうちの喜びのその深さが。促されて座った席の、隣が母で、隣が兄。真正面には父がいて、まっさきに母が注いだ紅茶に口をつけている。オレも父も兄も、どちらかといえば紅茶はあまり好きではないけれど、元々こっちの生まれではない母からしてみれば、アフタヌーンティーといえば紅茶、というのが当たり前のことらしい。父の紅茶は何も入れずにストレート、兄はレモンを落としただけのそれに、オレと母はたっぷりミルクが注がれる。もうずっと、母がいれる紅茶の変わりない決まりごとだった。
「ビスケットはいつものだけれど、パイはね、リンゴとカボチャのパイよ。甘さは控えめですからね、大丈夫ですよ」
「甘くないのかい?」
「甘くするんでしたら、チョコレートかアイスクリームを持ってこさせましょうか」
 切り分けられたパイが皿に乗せられそれぞれの手元へいく。フォークで切り分けたひとかけらを口に、父は「いいや」と短く答えてまた、パイを口に運んだ。母の甘くない、は充分に甘いということを失念していたらしい。
「貴方達は?」
「いえ、私はこれで充分です」
「オレも」
 口に含んだパイはリンゴの酸味とカボチャの甘味がうまいこと絡み合っていて、本当にそれだけで充分だった。少し歯ごたえの残ったリンゴが口の中でとけていく。ミルクティーにもあうけれど、これは多分ストレートが一番おいしく感じられるだろう。父のために母がするすべてのことの一部なのだろうか、と思うけれどそれは多分考えすぎでオレは気にしすぎているだけなのだ。きっと。
 ゆっくり、ゆっくりと過ぎる時間を楽しむためのアフタヌーンティーなんて、日々を忙しいものとしている父には(おおよそはこの地方の者には)、理解しがたいものなのかもしれないけれど、でも、こうしているということは。たぶん。

 杞憂、杞憂、杞憂。すべてがそうであればいいと思いながら、とりとめもない考え事は後から後からあふれ出し進化し、とどまることをしらない。突然暗闇に放り出された子供じゃあるまいし、なにを、不安、に思っているのか。
 いままでなにげなく手を伸ばしていたものが、急に遠ざかるような感覚。距離感を見誤っていただけ、という確信を持つにはどうしたらいいのか。まだ伸ばす腕が充分に伸びきっていないだけと思えばいいのに(曲げた肘をまっすぐにすればいいだけだ)、妙な白昼夢を見ているだけと思えばいいのに(最近考え事ばかりしているからだ)、ね。

「どうしたの?ぼーっとして、おいしくなかった?」
「ん、ううん。おいしかった。もうひとつ食べようかって、考えてたんだ」
「あら、そぅお?」
 たおやかに笑う母を前に、入れなおしてくれたミルクティーに口をつける。本当は満腹だったけど、欲張った子供みたいに取り分けてもらったもうひとつをぎゅうぎゅう口に押し込んだ。ゆっくり紅茶に口をつけながら小さく談笑する父と兄、それを見て微笑んでいる母。飲み込むパイも紅茶も、ただ流し込むみたいに胃に流れ込んでいってしまっただけだった。