C l a r a






 帰り道のが寂しい、と思いながら月の光の丘を下った。それでも掌のぬくもりは確かだったからよかった、と思う。とぼとぼ力ない足は重たく、別れを引き伸ばし引き伸ばして時間稼ぎをしているようにも思えてなにか嫌だったけれど、別れ難い離し難い、それは変わらず胸にあって締め付けていた。苦しくて切なくて離れたくないの、とシェリーが言っていた恋というものに似ているかもしれない。けれど恋って何だ。好きとか嫌いとか、好きって言われて嬉しくない筈がないけれど、でも、生温くその言葉を受け入れるだけが相手に好意を持っているということに繋がるわけではないだろうし、別れ難いからといって必ずしもその誰かを好きかといわれればそうではなかった。どちらかといえばこれは執着だろう、興味があると言ってもいい。こんな子供は見たこともないし、知らなかった。なのにまるで昔からいたみたいに笑ってそこに溶け込んで自然だ。

「帰り道はゆっくりなの?」
「暗いから」
 くす、と小さく子供は笑った。そうだ、そして決定的に自分とはまるで違うということを認識させられる。なんだろう、メイドを相手にしたときも、母を相手にしたときも、子供は臆しながらもはっきりと言葉を口にする。オレを相手にしたってそうだろう、帰って欲しくないとことほかに握り締めた掌にこめたけれど、帰る意志を貫いた子供の言葉。そういう意味ではよっぽどこの子供のほうが強い。

 明るい道を通り抜ければ、背中から明かりが遠ざかっていく暗い道をゆっくりゆっくり歩いていく。もうすぐそこだ、長い道だと思うけれど、本当は目と鼻の先でその場所は暗闇にさしかかれば目で見えている場所になるから。
「ククールは素直じゃないんだ?」
「なにが」
 亀の一歩を踏みしめていくような気持ちだった。けれど子供はどんどんオレを引っ張っていった。小さい身体によくもそんな力がある、と思いながら体重をかけてその歩みを鈍らせることに躍起になって、ジャックのランプの炎を大きく揺らめかした。
「帰って欲しくないって思ったら、そう言えばいいのに」
 砂利の上を引きずる靴の底が渇いた地面に長くひと繋ぎの跡をつけ、小さく埃を立ち上がらせた。帰るな、と言ったら果たしてこの子供は帰らずにとどまっただろうか。―――帰る、とはっきり自分の意志を告げた子供は、やっぱりとどまらずに帰ってしまうような気がしたけれども。
「言っても言わなくてもどうせ帰るつもりだったんだろ?」
「さあ」
「さあ、って…」
「僕はあのとき帰るつもりでいたけれど、でも、君が帰って欲しくないって言ってくれたら帰らなかったかもしれないし、もし帰るにしたって少なくともどうしようか考えてから帰るかを決めたかもしれないよ」
「それって、ユージューフダンって奴なんじゃねぇの?」
「そう…かなあ」
 首を傾げて子供は考える仕草を見せた。そもそも優柔不断という言葉を知っているということの方が驚いてしまうのだけれど、ああでも、こうして子供の歩みを少しでも止められたことにはよかったなと思いながら、オレは引きずられていた足を今度は石を蹴飛ばすことに専念してるふりをして一緒にその場にとどまった。
「でも、んーっと…、とーさまは言ってたんだ。自分の意思をちゃんと伝えなさいって」
「うん?」
 それは優柔不断かどうかの答えじゃない、けれどまだ子供は口から言葉を紡ぎだそうと一生懸命ああだのううだの声を出していた。鮮明に、そして的確に伝えてくれようとしているのだろうか、だったら。静かに黙して時に頷き、その言葉すべて聞いてやるのが筋だろうと、オレは子供から発せられる声をじっと待つことにした。
「でも、自分のことだけじゃなくて、相手の意思もちゃんと受け止めて考えてあげなさいって。こうしてって言われたことを初めから嫌がったり、拒否したり、聞かなかったりするのはだめだって。だって僕はこうして欲しいって―――えーと、求めるんだから、相手にもセイジツにセイイを返さないとだめだよって」
 セイジツとかセイイって、嘘じゃない思いやりなんだって、と子供は言った。そんな言葉は知っていた、文字通り、知っていたけれど、それが嘘ではない思いやりという心と意味を示されて初めて今温かみのある言葉だと感じられたんだ。普段当たり前のように使いこなしている言葉に、まるで深い意味などないように過ごしていたような気がする、本当にいつの間にか、だ。文字のひとつひとつは意味のない音の塊だけれど、繋ぎ合わせた単語は言葉になって生きているのに、どうして気が付かずに過ごしてきたんだ。

「じゃあ…、帰るな」
 まるで喉に熱い塊があるみたいに熱を持った何かがそこにとどまった。もちろん物理的にはそこになんて何にもないって分かっているし、ごくんと唾を飲んだってそれが下に落ちるわけじゃない。熱い熱い熱いなにか、物ではないもの、外に出ようと渦巻いているこれはなんだ。
「うーんと、…でもここまで来ちゃったし、僕も君も、家でかーさまとか待ってるでしょ」
「…帰るなって」
「どーして?」
 頑なに掴んで離さない、どうしてだというんだこの執着は。ああ、喉が熱すぎて苦しい、苦しすぎて切ない、どうしてだかまぶたも熱く感じられる。
「…どーして?」
 子供はじっと待ち続けた。喉の奥にある何かをまるで見透かしてるみたいで、でもなにも言わない。さっきの、あの玄関口の時と同じだ。帰って欲しくなと思ってる心を繋いで離さない掌に代弁させて、でも子供は帰るというのだ。帰る、帰るよ、帰っちゃうよ、じゃあねサヨナラって言うんだから、ねえ。聞こえない声が聞こえるようで、まるで些細な言葉に責められているように思えた。そんなはずはない、それはオレの幻想で妄想で自意識過剰に傷つきやすいものだった。オレではなかった。…そう思いたかった。

「ちゃんと言ってくれないと、わからないよ?」

 ことん、と。なにかの落ちる音がして、それは喉奥につっかえていたもので、熱さと苦しさと切なさと言葉だった。それだけでなくあまつさえじんわりと、目が潤みさえした。
「一緒に、いたい。友達に、なりたい」
 上っ面だけの言葉と思いはすらすら滑るようにでてきたっていうのに、なんでだろうか、つやつやしたまるきり裸の本心を口にすること、ちゃんとした意思を伝えること、こんなにも苦しいだなんて思いもしなかった、知り得なかった。喉につかえていたときよりも苦しいと思うのに、苦しいのは嗚咽を飲み込んで耐えようとしているせいで思いはするするほどけていくようだった。
「うん」
 子供は子供だった、けれど子供以上に子供みたくオレは俯いて唇を結んだ。掌を強く握っているのはオレだけじゃなかった、今はもうちゃんと握り返してくれていた。まるでそれが答えだというみたいに。

「じゃあ、また明日。ここで会おう?」
 目を閉じてにこりと微笑んだまぶたに、約束と憧憬のキスを送り、「また明日な、」笑う。満足そうな顔がふたつつき合わせて向かい合ってとても心が穏やかになった。言葉で心を伝えた苦しさの代わりにひとつの約束をしたから、やっと手と手は離れていく。
「エイト」
 呼びかけになお一層目を細め、エイトは笑った。ジャックのランプのよいよい帰り道、また足取りは軽く弾むだろう。