さよなら青い鳥 1 「さて、」 嫌な事や面倒なことは先延ばしにしないほうが良い、というのは教会の裏のダンボールハウスに住んでいた神父から教わったことの一つである。 彼からは沢山の事を学んだ。税金を払わないと連行されるということも、すすめられているうちに更生施設に入らなければ、そのうち更生の機会も与えられないということ。 路上での生活はやはり辛いらしく、精神にも異常をきたすようだった。彼のそのような状況はとても痛ましかったが、正常な会話が出来なくなっても、理不尽で意味のない罵声を浴びるようになっても、我輩は彼のもとへほとんど毎日通っていた。彼は人間としての意識を忘れても誇り高い人だった。厚生施設のボランティアの人が差し出すブランケットをけして受け取ろうとしなかった。 彼は「自分は誰からの施しも好意も受けない」と言っていた。生活に必要なものは自分で探して自分で手に入れると言っていた。どこでそれを調達してくるのかというと、ゴミ捨て場やコンビニエンスストアの棚だ。平たく言うと、窃盗だ。 彼はそれをサバイバルのための犠牲だと言っていた。 「お前が鶏肉を食べるために鶏を殺すのも、似たようなものだ」と彼は言った。 「鶏が“自分を食べて!”なんて言うか?だから俺も、必要なものは自分で手に入れる。施設の人間の偽善なんか受け取れるものか!」 しかし教会の裏に無断で住み着いている事を神父が「不法侵入、不法滞在という迷惑行為をこうむっている」と警察にと通報しないことも一種の好意で、奉仕だ。我輩は最期までそれを指摘することが出来なかった。 我輩が彼を最期に見たのは、寒い冬の日だったと思う。降り積もったばかりの真っ白い雪が高級な絨毯のように積もっていていた。それをサクサクと小気味良い音をたてて踏みしめながら彼のもとへいつものように歩いた最期の日。 結局、彼は施しや好意を受けているという事を自覚する前に、死んだ。 綿毛のような雪が降り積もる朝、彼は冷たく硬くなっていた。 国民の税金を使って彼に贈呈されたブランケットは畳まれて隅のほうへ置かれたままだった。 彼が死んだことを誰に伝えればいいのか、当時の我輩にはわからずに、その日は黙って家に帰った。少しさみしい気持ちで、自分の足跡で汚れた帰り道を歩いて。 それからの数日ははかかさず毎日教会の裏に面する道を通りながら、彼の家(ダンボール、築3ヶ月)が撤去されていないことに安堵していたが、それはある日突然なくなっていた。 教会の中に住む本物の神父に聞くと、連絡を受けたしかるべき施設の人間が彼の遺体どこかへ持って行ったと聞いた。もちろん葬儀など行われるわけもなく、遺体がどこへ運ばれたのか、そしてそれがどうなるのか、神父は我輩に本当のことを教えてはくれなかった。 ただ「この世のすべての罪を許され、天国へ行った」としか言わなかった。 「彼は何の罪をおかしたのだ」と聞くと、神父は我輩に木の硬いベンチを勧め、彼もその横に座った。そして彼は時おり我輩の肩に手を置いたりして親密な空気を作り出そうと努力した。 彼は辛抱強く原罪やら生きていくことの罪や教えや罪や神罰や報い(実際、罪と罰の話ばかりだったが)などを我輩に説いた。 しかし生粋のイギリス人である彼は、ロシア人のように文学的には“罪と罰”についてを語れなかった。我輩は神父の話をを理解しようと真剣に聞こうと努力したが、退屈でたまらなかった。 神父は日曜日のミサに参加せず、裏手のホームレスにばかりかまっていた我輩に、これ幸いとばかりに神の教えの偉大さを説いているようだった。 彼の死を利用して、我輩に信仰心を植え付けようとしていたのだ。 しかし、我輩が聞きたかったものは聖書の一説や一般論ではなく、彼のことだけだった。 「彼は神を信じていなかったが、それでも天国へいけるのか」と質問すると、神父は機嫌を損ねたようで、口を閉ざして顔をしかめた。 “信じるものは救われる”それは裏を返せば、“信じないものは救われない”のだ。神父の信じる世界では。我々の頼みのつなの神とはそんなに心がせまいのか。 我輩はきまりが悪くなり、暖房の効いた安全で、そこらじゅうが金でメッキされている教会から出て行った。 彼の「許される必要のある罪」とはなんだったのか、今でも解らない。 我輩がわかることは、彼はまず世間から逃避し、そのついでに現実からも逃避してしまった。最期のほうなど、我輩が誰であるかどうかも解らなくなってしまったらしく、ただ一人でぶつぶつと何か呟いていただけだった。 そしてこの世の中からも逃避してしまった。 → 2004/11/9 トラ |