さよなら青い鳥 







  2





 そして後ろを振り返ると、使い古された小さな接客用のソファーへ自信ありげに腰掛けている一人の生徒が目に入る。は薬を受け取りはしたものの、それをいつものように飲み込むことはなく「話がしたい」と言った。
 まったく、何を話すというのやら。

「我輩は教師として、すべての生徒に分け隔てなく教育をしているつもりだ」
 疑い深げな目で彼女が口をはさもうとしたが、睨むとすぐに口を閉じた。
「それで、この学園の中で同じような扱いを受けている多数の生徒の中で君だけが我輩に特別な感情を抱いている。それはなぜか?」
 我輩は一度言葉を切り、ゆっくりと目を閉じ、また開いた。は我輩ののまぶたの動作すら一瞬でも見逃すまいというように目を開き、じっと見つづけている。
「理由なんて、」と彼女が口をはさんだ。

「まあ、聞くがいい」
 勇んだをなだめるように手のひらを彼女に向ける。
「それは、君が我輩にくだらない妄想を抱いているからだ。ミス、考えてみたまえ。我輩が生徒に人気の教師に見えるか?人間的に素晴らしく見えるか?友人にでも聞いてみるのだな。そして現実を見たまえ」
 諭すように戒めても、それでも彼女はよく滑る口を閉じることはない。
「人間が人に対して好意を持つことに、誰かの忠告と許可が必要とはおもえません」
 我輩は溜め息をついた。
「つまり我輩は君を説得しているのだ。生徒である君を、教師として」



「先生の説得は私には効果はありません」
 無意識に片方の眉がはねる。そして彼女の言葉の続きを待った。
「なぜならば、私はすでに先生のことを好ましく思っています。ある種の物事は一度動きだしたら進むことはあっても、後退することはありえないんです。気持ちはその“ある種”に含まれると思うんです」
 はゆっくりと、言葉のひとつひとつを慎重に選ぶように言った。
「ですから、私がスネイプ先生への気持ちを消し去ることはできません。私の自由です。そもそも相手に対して妄想を抱かない人間関係なんてありません。人間の心理として、人にはやさしくされたい。親切にされたい、好かれたい、と思います。人間の心理です。
 私がスネイプ先生に幻想を抱いていようとも、それはまったく正常なことで、その気持ちを変化させることはできませんし、私の自由です」

、君の説得は我輩にはまったく効果がない。なぜならば、君がたったいま捲くし立てた理論は君自身を正当化するための理論だ。すじは通っているが論点がずれすぎている。我輩の提示した“身近な大人に幻想を抱いているだけ”という問題に対して、まったく返答が無い。つまり、君よりすこしばかり多く人生を経験した我輩にとって滑稽にしか聞こえん。自己の正当化の失敗だな」
 やれやれ、と声に出して言いたい気分だった。はまだ言い足りなさそうな顔で我輩の目をじっと見ている。

「それにだな、君が我輩を好ましく思うことは自由だと言った。ならば我輩は君をただの一般的な生徒だと位置付けることも自由ではないかね?」
 言葉の表面は諭すように、しかし冷たく言い放った。
「いいえ」
 しかしは強くその意見をはねのける。
「”いいえ”とは、何を否定しているのだね、
 イライラとした感情を隠すことが出来ずに、考えるよりも先に言葉が口からすべり出た。これは教師としてあるまじきことで、反省すべきことだ。
 ものごとを教える立場である我輩は、けして生徒を対等な立場だとは思ってはいけない。彼らには何の期待もせずに、するべきことだけしていればいい。期待しなければ失望もしない。
 しかしは自分の気持ちをストレートに表現するたちらしく、さきほどから耳が痛いことこのうえない。まったく、どうしたものか。

「一度つたえてしまったことを完全に忘れることはできません。それにある種の物事は、前にしかすすまないんです。特に記憶と言うものは、物理的に、後ろ向きに進むことはありえないんです。ですから、先生の中で私を今までとまったく同じ位置に置くことはできないでしょう。
 たしかに忘却術をかけてしまえば完全に忘れることも可能ですが、忘却術は脳の記憶能力を退化させます。先生がご自身に忘却術をかけることはありえないでしょう。先生は熟練の魔術師です。たかが数回の術で身体の機能を低めることはないでしょうけど」
 長々としゃべるとは、すばやく息を吐き、我輩を見上げる。
「でも私は何度でも言います。先生が忘れるたびに、何度でも言います」

 は我輩に歩み寄った。手を伸ばせばすぐに届くような位置まで距離を縮める。
「私は先生が……」
 黒いローブを掴もうとが腕を伸ばした瞬間、スネイプは一歩身を引き、ひゅっと空を切る音を立てて、杖の先端を彼女の鼻先に向
けた。
「言うな」
 すべてが面倒で疎ましい。できることならば何も聞かなかったことにしてこの部屋を出て行きたい。彼女だけでなく、世の中のもの全部が我輩の神経を逆なでするためだけに存在しているような気分だ。
 しかしそれは被害妄想だということも同時に解っていた。

「それでは我輩が自ら呪文をかけようではないか、ミス、君に。忘れてしまえ、そのほうが楽だ」
 は息を呑む。
「迷惑だ」吐き捨てるように、「睨むな」と短く言った。
「さんざん自分の好きなように感情をぶちまけて、人にはそれを許さないのか?随分と勝手だな」
 は何も言うことができずに目を伏せた。
 彼女は無知で純粋なだけのただの生徒だ。

 いまいましさの根源である幻覚すらも、我輩の脳が作り出したものであるということも、とっくにわかっていたが、深層心理というものは身体の細胞と同じで、その宿主である我輩が直接指示を出して制御することはできないのだ。
 すべて理解はしていたが、どうにもならない。それがまた頭の芯を痺れさせ、使い物にならなくする。

 ”ただ”の生徒?しかし……

「しかし」向けた杖を静かに下ろし、ローブの中にしまいこむ。「教師が個人的な感情のみで生徒に呪文をかける事は禁止されている」
 非常に残念だ、と小さく、しかし彼女に明確に聞こえるようにつぶやいた。
「先生は、教師だから私を避けるんですか?」
「あたりまえだ。……しかし、君が生徒でなくても答えは同じだ」
 しかし、単純にその他の生徒と彼女が同じであるなら、なぜの翼だけこんなにみすぼらしいのか。

「それでは、生徒と教師でなければ私の事をどうお思いですか」

「その仮定は意味がない。実際におこなわれていない事柄を、どう想像するというのだ。人間の空想というものは実に当てにならない。理想がはいりこみ、歪められた仮定でしかない。」

 “人間の空想は当てにならない”それでは幻覚はどうだ?その幻覚を作り出している脳の持ち主の唱えている倫理など信用できるのか?
 
「それに、君が我輩を好ましく思っているという要素の一つに、我輩が教師という立場だということも含まれているだろう。それくらいの年代の子供は、身近にいる大人に憧れを抱いて妄想するものだ」

 なぜ彼女の翼だけ特別なのか。
 幻覚は我輩の脳の中で無意識に構築されたものだ。それならば、彼女の翼を特別に仕立てているのも我輩ではないだろうか。






 

2004/11/10     トラ