治療室の夜 本日のすべての魔法薬学の授業はとどこおりなく、いつものようにスムーズに終わった。 相変わらず問題児の多い例の学年であるクラッブとゴイルは、草を食べものだと思い口に入れてみては舌を腫れあがらせた。おそらく、彼らの世界には『食べられるもの』しか存在しないのだろう。それが安全かどうかは、どうでもいいのだ。 親愛なるスリザリンの純血の王子であるドラコはというと、グリフィンドールのテーブルへ太ミミズの頭をちぎっては投げていた。太ミミズは今回の授業にて胴体のみを材料として使うゆえ、不要な部分である頭部を彼がどうしようと自由だ。まったく問題はない。 それに彼は我々の未来を担う子供だ。いまからそれらしい行動を取るように心がけているのだろう。まったくもって素晴らしい。お父上が彼の今の見ていたらどんなによろこぶことが!たぶん、美しいプラチナブロンドの頭をしたたかに撫ぜながら賛辞を送るだろう。 ところで『ブロンドヘアの人間は、ダークカラーの髪の毛を持っている者より知能が劣る』とどこかの新聞で読んだが、我輩はこの説をまったくの嘘だと思う。たとえばロックハート、彼を見ればこの説はまったくの大嘘だと……いや、そのことについてはまた今度考えるとしよう。頭痛が痛い。馬から落馬しそうだ。頭が混乱してきた。 実際、テーブルの上ではミニチュアの馬や羊がのんびりと闊歩していて、ちょっとした農場のようだった。 他の学年の授業も正常におこなうことができただろう。 つまり、問題があるとすれば我輩の視界だ。 朝から目を何度も閉じたり開けたりしているが、生徒達の背中に羽根が見えることに代わりはない。朝食のホールで発見した通り、そこらじゅうに巨大な鳥がいるようだ。 いままでの幻覚はあまり職務に支障がなかったのだが、羽は視界を大いにさえぎる。生徒と生徒の肩の隙間から鍋を見ようとも、大きな翼が邪魔をして調合の監視をうまくおこなうことができない。 当然ながら誰が出席していてだれが授業を放棄しているのかも解らないのである。 しかし灰色の羽毛は教室中を舞い、まるで雪のようだった。は見えなくてもどこかで見られているような気がした。 仕方がないので午後に授業の入っている学年の魔法薬調合実習は中止することにきめ、レポートを書かせた。今はその添削作業中である。大量のレポートを評価していくうちに、すっかり夜中になってしまった。 ずるずると採点を先延ばしにしていたの羊皮紙の隙間から出てきた灰色の羽毛は、指で払いのけようとする前に飛んでいった。疲れた。今夜はもう寝てしまおう。 こうも仕事に支障が出るとは、これは聖マンゴへ診療の予約をしなければいけないかもしれない。 自室へ帰る前に、談話室を見回ってこようと寮に寄った。寮監としての仕事で、毎晩の恒例だ。 スリザリンの寮はホグワーツの建物の中でもっとも北極に近く、北の端のに位置するので、これくらいの季節でも寒い。すでに暖炉には火が入っている。 灰色と深緑を基調にした談話室は暗く、古い映画のように色をもたず、部屋を照らす炎のみが色彩をもっているように見えた。 しかし、生徒が全員いなくなったあとでは暖炉に火が入るわけはない。不思議に思い、談話室をのぞきこむと、ぞっと血の気が引く音が聞こえたような気がした。 部屋の片隅に灰色の羽毛がちり積もっている。羽根の主であるを埋めるように。 「もう、談話室にいて良い時間ではないと思うが」 つとめて平静を装おうと、我輩は注意深く声をかけた。 彼女は頭を垂れて灰色のゴブラン織りのソファーに片足をあぐらのように座面に乗せ、もう片方の足はだらりと垂れていた。膝の上にはなにやら重そうな分厚い書籍のページを指がたどっていた。 は声をかけられると、ゆっくりと頭を上げた。その動きでさらに4、5枚の羽が抜け落ちて、何層にも積もっていた羽毛の上にさらに重なった。 「部屋で本を読んでいたら……同室の子が明るくて眠れないって言うから」 と会話をすることは初めてではない。魔法薬学の教師として、スリザリンの寮監として。 しかし、いつものようにしゃべれているかどうかはわからない。 「それでは、暗い部屋に帰って君も寝るといい」 とくに気にするでもなく、マグカップに入ったクラムチャウダーに四角い白いクラッカーを浸して彼女は言った。 「先生も、召し上がりますか?」とあまりにも自然に言うので、つい無意識に「ああ」と答えてしまった。 は一瞬とまどいの表情を見せたが(あたりまえだ、彼女はただ単に社交辞令で礼儀的にすすめたにすぎないのだ)すぐに笑みを浮かべた。 「いや、やはり遠慮する」という我輩の言葉を無視したのか、単純に聞き逃したのか。 壁沿いに設置されている簡単な食器棚からマグカップを取ってきて、暖炉の近くに置かれている鍋から白いとろりとした液体を注いで戻ってきた。 談話室の絨毯の上には、の歩くたびに、ホコリのような綿毛が何かの道しるべのように置き去りにされていった。 「クラッカーは、みんな食べてしまったんです」とすこし申し訳なさそうに柔らかな表情で言い、我輩にマグを手渡した。 たぶん、彼女の家庭はやわらかで、寒い季節にはポタージュスープがつねに暖かく待機している、しあわせな家庭なのだろうな、と思った。彼女の行動には育ちが表れているのだ。 場の空気に流されて、湯気を立てているマグを手に彼女のはす向かいのソファに腰をおろす。深夜の談話室、生徒、教師、ファンタジーな幻覚。暖炉からは妖精のもらい子が細い目を三日月のように反らせて笑っていた。 「せめてこの章が終わるまで、よませてください」 表紙を覗き見ると「人間のストレスと症状について」非常に複雑そうな内容の本である。 「理解できているのか?」 は顔を上げずに答えた。 「いいえ、専門的すぎて全然解らない」 「では、どうしてそのような本を読むんだ」 「むずかしすぎて退屈だから、読むんです」 本当に、よく解らない生徒だ。 そしての羽は、なぜこんなにも痛々しいのか。それも不可解でならない。 我輩も読書の、文字を追う楽しみは人並みに心得てるゆえ、黙認することにした。そして彼女はまた、真剣な顔で読書に戻った。 それにしても、暖炉、大きくて落ち着けるソファ、暖かい飲み物、クラッカーを割る音、静かな部屋に向かい合って座っている。 まるでセラピストのオフィスのようだ。 それでは、どちらが患者で、どちらがセラピストなのだろうか。大抵の場合は落ち着いているほうが前者で、不安げにしているほうが後者だ。 我輩はその区別をつけることができない、怖くて。 マグの中身は冷めることなく、まるでコミックの登場人物のフキダシのように白く濃い湯気をくゆらせていた。 実際、我輩は湯気の中に「ハロー」やら「グッドナイト」やらのメッセージが独特の書体で書き込まれては消えていく。 これがいつもの幻覚であるなら、現実には、正常な人間の視界には、湯気すらも存在しないということなのか。 彼女の翼から絶えず剥がれ落ちてくる羽根は床へ落ちる。薄汚れた綿のような羽毛は談話室の宙を舞う。 そのいちまい一枚の羽根の繊維の陰に、彼女の粒子がまぎれこんでいるような気さえした。あの羽根は我輩の脳の奥底の深層心理が作用し、そして我輩のみに見えている付属物である。だからその羽根に彼女の遺伝子が組み込まれているわけは無いのだが、我輩が作り出した幻影なら、我輩が思い描いたものこそが真実ではないか。 つまり、我輩が「あの羽根には彼女の肉体の一部が剥離したものである」と思えば、その瞬間にそれは事実となるのだ。我輩の見えている世界では。 我輩の深層心理が中枢となっている幻覚の世界では。 我輩のいる世界のみで。 どこまでが幻覚でどこからが正常なのか、境界線がだんだんと曖昧になっていくような気がしてめまいを覚えた。 二人はただ単純にぼんやりしているだけで、時計の内部のネジだけが回転し、暖炉の中の魔法の炎は木々を灰にさせることなく、酸素と炭素を結びつけて二酸化炭素にすることも無く、都合のいい扱いやすい消えない火をともし続けていった。 魔法使いとは、自分が知らないことは無かったことにするという性質を持っているので、この世の中にはCもOもCO2も存在しないのだ。燃焼なしにどう呼吸をしろというのだろう。 そして我々の世界ではポリエステルもナイロンも存在しない。 もっと長ったらしい名前の魔法生物的な動物性繊維として、仕立て屋の店の奥の奥の棚にひっそりと鎮座している。 私は多くの魔法使いと同じようにマグルを軽視しているが、彼らの作ったものには感心している。とくに服はマグル製の、おもにフランスで作られたものしか 着ない。これはイギリス人とインド人の関係に似ている。 そしてナイロンと北極ヤギの毛の関係は、ブナシメジと似ている。 考えることもなくなって、のほうに目をむけると、彼女もただ本の表面を眺めているようにしか見えず、文章からから知識を吸い込んでいる気配はすでに無かった。 「もう、寝ろ」 我輩は無言でローブから抜き出した杖を振り、暖炉の炎を消した。 談話室は一段と暗く闇の色を濃くし、いまではロウソクの小さな灯りのみが壁づたいに点々と部屋を頼りなく照らしていた。 「部屋へ戻るんだ」 は諦めたようにうなずくと、女子寮へ続く廊下を歩いていった。 の歩いた廊下には点々と灰色の羽が落ちていた。 道しるべのように。 NEXT> 2004/9/28 トラ |