浮気草の露









 次の日もは深夜の談話室に一人で座っていた。
 昨日とはうってかわって柔らかいタッチで描かれた絵本。羊が柵を飛び越えるさまを延々と描写する、母親が子供を寝かしつける時に枕もとで読んでやるようなものを片手に、生のレタスの欠片を手でつまんでバリバリとかじっていた。
 彼女が手やら指やらを動かすたびに、灰色の羽は相変わらず抜けて落ちた。
 昨日から何千枚もの羽が抜け落ちているが、翼から羽毛が落ちきってしまうことはないらしい。まったく幻覚と言うものは都合がいい。
「君はウサギか、留守番をしている幼児か」
飽きることなく一定のペースで葉を口へ運ぶ様子にあきれ背後から声をかけると、彼女は首だけ上を向けて我輩を見た。
「今日も、もうそんな時間ですか?」
「君は時計を見る癖をつけたほうがいいのではないかね」
 は笑い、暖かい紅茶の入っているカップを差し出すと、また絵本を食い入るように見つめはじめた。絵本ごときに、どうしてそれほどまで必死な表情を向けるのか我輩には想像できなかった。
 紅茶は我輩が来る事を予測した上で二人分の紅茶を入れておいたのだろうか。その用意周到さに苦笑しながら今夜もソファに座る。
 
「不自然ですね」出し抜けにが口を開いた。「いつも人が沢山いるところに人気がないって、変な感じ」
 ぼんやりとカップを掴んだまま壁を見つめて今日もくだらない事を考えていた我輩は、急に響いた彼女の声に驚きながら目を向けた。
「あたりまえだ。何時だと思っている、君もさっさと部屋に戻りたまえ」
 は肩をすくめるが、続けた。
「いつも気になるんですけどね、放課後とか皆が談話室に集まるじゃないですか」
 そのすくめた肩にかかるタンクトップの片方のそでぐりから、パスタでいうタリアテッレのような平たい下着の肩紐がはみ出ていて、この場合それを指摘したほうがいいのか、それとも見ない振りをしていたほうがいいのか、どちらが適切なのだろうかと頭の隅で考えていた。
「朝食の時とかも全校生徒がホールに集まってて」
「それがどうした」
 要領のえないことをしゃべりつづけるへ眉をひそめる。すると彼女は楽しそうに微笑んで見せた。
「それで、考えるんです。襲撃されたらどうなるのかって」
「襲撃?」あまりにも唐突で場違いな単語が飛び出したものだから、頭の悪い人間のようについ鸚鵡返しに聞き返してしまった。
そしてなんでもないふうには続ける。
「襲撃、っていうか、とにかく何か大きな事件が起こったら」
 アイルランド人が爆破予告をしたり、インドのプランテーション跡地で暴動が起きたとか、などと笑えない冗談を彼女は笑みと共に漏らす。ベットのマットレスがいつのまにか四葉のクローバー畑に見えてしまっている我輩としては、非常に忌々しき問題である。
「君は、いつもそんな物騒なことばかり考えているのかね」
 あきれたように言うと、意外そうには口を開いた。
「べつに、いつもじゃないですよ」
 彼女は笑った。
「たぶん、そういう映画を見たから、思いついたのかもしれませんけど、ただ、」と言いかけてこちらのほうをのぞき見る。
「ただ、先生を見ているとそう思うんです」
「我輩を?なぜだね」
 今度の質問は、聞きたくない振りをするにはすこしばかり衝撃的すぎた。
「なんとなくです」
 は肩をすくめ、何事も無かったかのように読書へ戻ったが、ページをめくる指はながいあいだ止まっていた。
 我輩が談話室の明かりを消すと、は肩をすくめて本を閉じ、女子寮へ上がっていった。
 そんなことが数日つづいた。
 


 夜遅く、むかつく胃と背後のソファーで飛んだりはねたりしている小人を無視し、事務的な作業を義務的に消化していた。そろそろ談話室へ見回りに行こうかと走らせていたペンを机に置く。今日もはいるだろうか。
 今夜もホットミルクやらココアの匂いを嗅がされるのかと思うと少し憂鬱な気分になった。最近ではほとんど毎日のように暖かく子供っぽい飲み物をすすめられる。「結構だ」とか「味も忘れてしまったと」言っても、ほぼ強制的に手渡される。たしかに、久しく口にはしていないがまずくはない。
 するとタイミングが良いのか悪いのか、部屋の扉をノックする音を聞いた。
 ドアのほうを振り返ると「わたしです、スネイプ教授。すこしお話があるのですが……」と校医のマダムポンフリーの声が響いた。
 部屋にかけていたカギのを解いて少し待つと、マダムとが遠慮がちに部屋の奥に侵入してきた。
「何の用ですかな」
 しかたなく二人にソファーを勧め(小人は本棚の上へ移動していた)、その正面に我輩も座った。
「ミス、ご存知ですよね。あなたの寮の」
「ああ」と相槌をうつ。「が何か?」

 マダムポンフリーに付き添われて部屋に来る、深夜にもかかわらず。具合でも悪いのか、そういえば最近のは少し様子おかしい。
 朝食中はぼんやりと宙をながめ、授業中も集中力が無いようにみえ、実験では簡単なミスを連発し、提出されたレポートには誤字が目立つ。
 毎晩のように薄暗い談話室に居残り、深夜まで本を読んでいる事は前からめずらしくはなかったが、日に日に談話室に居残る時間が延びている。我輩が強制的に寮へ引きあがるように指示しなくては動こうとしない。

。自分で言えないようでしたら、わたしが……」
 マダムはを温かい目で見る。彼女は小さく首を横に振ると、我輩の目をいつものように深く刺すように見た。
「眠れないんです」
「眠れない?」
「彼女は……不眠症だとわたしは思います」
 たぶんストレス性の、とマダムは補足する。「前々から寝つきが悪いと相談は受けていたのですが、最近ではそれが酷いらしくて」
 はたいして柔らかくも無いスプリングの緩んだソファーに居心地悪げに沈んでいた。
「それで?」
「睡眠薬をスネイプ先生に処方していただこうかと、わたしよりも先生のほうが薬を調合することはお得意でしょうから」
「ああ、そういうことならば承知した」
 満足そうに微笑むマダムからのほうに視線を移すと、彼女は感情の判別のつかない表情で黙っていた。
「それでは、わたしは失礼させていただきます。彼女に処方した薬の成分は紙に控えておいてくださいますか?」
 我輩はうなずくと、マダムを扉のほうまで送り届け、ミスターポテトヘッド(最近見えるようになった新しい幻覚の一つで、最新の3DCGのようにつややかに滑らかに動く)がニヤニヤと笑っていたので、教育委員会の方針に習って扉を薄く開けたままの正面に再度こしかけた。ミセスポテトヘッドがソファーの下から這い出てきた。やめてくれ。たのむから今だけはやめてくれ。
 ソファ、薄暗い部屋、書類デスクの上には我輩が先ほどまで飲んでいた紅茶が湯気を立てている。談話室で感じたように、この部屋もすこしセラピストのオフィスの雰囲気をおもわせる。
 しかし、今夜も我輩は落ち着かない気分だ。この部屋は我輩のものである。談話室は生徒のテリトリーである。
 だからあの晩、我輩が落ち着かない気分でいたことは自分の行動範囲からはみ出していたからと納得することができるが、自分の管理するスペースまでも心地悪く感じるとはどういうことなのだろうか。
 原因は我輩の幻覚か、幻覚を付属させているのせいか。

 はうつむいたまま無言でソファに座ったままだ。
「いつから寝ていないんだ」
 これはの精神を癒すためのカウンセリングではない。状況にあった正しい処方をするための形式的な問診である。目的はただ彼女を薬品の成分によって強制的に眠らせるためだけだ。
 ……我輩はなぜそのように言い訳がましく説明をしているのだ。何のために。
「2、3週間前から」
「いままでに睡眠薬を飲んだことは?」
 は首を横に振る。
「それでは弱い薬を選んで薬品棚から取ってこよう。すぐに終わる、ここで待っているといい」
 彼女はうなずいた。

 それから薄めの睡眠誘引剤をガラスの小瓶に詰めたものをに渡したときも、寮の前まで彼女を送っていったときも、ついには一言も発することなく部屋へ入り、扉を静かに閉めた。
 べつに感謝の言葉が欲しかったわけでも、道徳的な教えを彼女に説きたいわけでもないが、少し理不尽な憤りを感じながら我輩も部屋へ戻った。
 暗い廊下では身長7センチほどのヘンゼルとグレーテルが、彼女の落としていった羽を道しるべのようにたどって歩いていた。
 その羽を蹴散らすように歩くと、彼らは恨めしい顔で我輩を見あげ、闇の奥へ消えていった。










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レタスには睡眠薬の作用があるんだそうです。
そのせいでピーターラビットたちは人間に捕まりかけたような気がする。
ちなみにキャベツのキャベジンは胃の働きを助けるとか何とか。
はっぱ類万歳。

「浮気草の露」は真夏の世の夢でパックが塗っちゃうあれです。
まぶたにね。
はっぱ類万歳三唱。



2004/9/28   トラ