治療室の昼間から夕方 「眠れたか?」 翌日の昼休み、廊下を一人で歩いていたに声をかける。背後から不意に声をかけられた彼女はぴくりと肩を上げ振り向いた。その動きで数枚の羽根がぱらぱらと石敷きの床に落ちた。 「はい」 小さな声では答える。 「……そのわりに、今日の授業中もぼんやりしていたな。十分な睡眠を取った後でも眠くなるほど、我輩の授業は退屈かね?」 幸いなことに近頃では若い翼の大群にも慣れ、それなりに教室内を見渡すことができるようになっていた。順応、すばらしい人間の能力だ。 「正直に答えろ、。薬を飲まなかったのか?」 彼女はうつむいていた顔を上げ、我輩の目を見上げる。その一連の動作は非常にゆっくりとしたもので、まるでここが海の底のように、水の中を、時間の粒子のあいだを泳いでいるような錯覚をおぼえる。 彼女がまばたきをするたびにあらたな水流がうまれ、我輩はその渦に押し流され、肺に水が入り溺死する。水の中ではみんなそうだ。誰かを呼ぼうとしても声を出せない。口の中が塩水であふれているんだ、沈む時は助けを呼べない。 しかし肺に侵入するのは水ではないかもしれない。たぶんそれは、の背中から絶え間なく舞い散る細かな羽毛の繊維だ。 実際、我輩の視界の隅のほうには、空中であるにもかかわらず、魚類としての呼吸法と生態を無視した金魚が数匹泳いでいた。そして、幻覚に対して”実際”という表現を使うのはいかがなものか。しかし、”実際”に我輩にはそう見えるのだから仕方がない。 はまだ口を開かない。 「……薬を飲むと、」 ようやく何か言うのかと思ったら、捉えどころのない、文章としても完結していない不確かな言葉だ。 「薬を飲むと、なんだ」 強く促がしてもなお、はじっと我輩の目を見ているだけで、何の説明もしようとしない。 「言いにくいことならばマダムポンフリーを呼ぶが?」と、個人の精神的に、または身体的にかなり介入した答えが出てくるのでは、と打開策を提案してみても首を横に振るだけだ。 「いったいどのような理由で薬を飲まなかったのだね」 我輩は教師ではあるが聖人君子ではない。学問を伝授するという能力には長けていると思うが、子供(とはいっても、は「子供」と括るには学年が少々上すぎるかもしれないが)の健全な成長を見守る、という才能はまったくと言っていいほど皆無だ。ちなみに忍耐力も無い。薬草を煎じる以外の暇な時間に耐える方法を我輩は知らない。 「それとも単純に、まさか我輩がわざわざ手間をかけて煎じた水薬が気に入らなかっただけとは言わないだろうな、ミス」 「いいえ、先生」 予想外の勢いのいい返事に少し面食らいながら、再度問いかけるとはゆっくりと口を開いた。 「薬をのんでしまうと……もう飲まなくちゃ眠れなくなくなるみたいで怖いんです」 インフォームドコンセント、という言葉が脳裏をよぎった。 「それは問題ない。我輩の調合した睡眠誘引剤は依存性はない。それに、そんな事を言う前に体を休めることが第一だ」 薬剤の目的や方法、予想される効果やおこる可能性のある副作用を事前に被験者に告知し、理解をしてもらう。薬を処方するさいの基本だ。昨夜は忘れていたのか。 いや、忘れていたのではない。単純に我輩はそういった類の、人を思いやるという対話が苦手なのだ。通常はマダムに薬を渡すだけで、そのような説明は彼女が行っていた。我輩は慣れていなかっただけだ。 「そして夜中まで連日起きていることから、睡眠パターンが乱れていると診断できる。だからむりやりにでも夜の早いうちに寝てしまい、それを習慣づけてしまったほうが―――」 「どうして私が眠れないかは、聞かないんですね」 「……薬の調合に、感情の分析などいらない」 一瞬が何を言っているのか解らなかった。反射のように冷たい言葉を発してしまうと、は一瞬傷ついたような色を浮かべるがすぐに無表情にもどった。 「まあ、そうですね」 「……なにか、言いたいことでも? 」 探るように、彼女は我輩の顔を見上げつづけている 「いえ、べつに 」 しばらく廊下に立ちつづけていた、お互いを見合ったままで。不思議とほかの生徒は誰一人として見かけなかった。彼女の視線には意志というものが感じられない。ぼんやりとしていて、不確かな目だ。は何度もまばたきをして、目にかかる何かを払いのけようとしているようだ。 「……眠いのか? 」 彼女はゆっくりとうなずく。 「眠くてしょうがないんです。夜中ベットに入ると目が冴えてしょうがないのに、昼間とか授業中は眠くてたまらないの」 「では、自分の部屋へ帰って眠ればいいのではないかね?そうすればすくなくとも午後の授業はしっかりとうけられるのではないか?」 は首を横に振る。 「ベットに入ると、急に目が覚めるんです。談話室のソファもだめ。医務室でも眠れない」 「眠くなるのは授業中だけなのか?」 「いいえ、ベットに入っていない時はいつでも。でも、いざ眠ろうとすると、急に目が覚めるんです」 ぼんやりとしていた彼女は急に何かひらめいたかのように、顔を上げて微笑んだ。我輩が眉をひそめ怪訝な顔でに「どうしたのか」と聞こうとすると、午後の授業の始まりを告げる鐘の音がした。我輩の声はそれにかき消される。 「私、今なら眠れそうな気がする」 彼女が口を開くタイミングも、ほとんど同じ午後の授業の始まりを告げる鐘と同時だったが、強く校内に響きわたっていても、なぜかの声はかき消されずに、正確に我輩の鼓膜を振動させた。 「……午後にはまだ、学生に己の知識を伝授して、少しでも生徒をましな人間に成長させてやろうと思っている、奉仕精神にあふれた教師達による授業が3時間ほど残っていると思うのだが、それについて君はどう思っているんだね?」 「私は、夜中に眠れなくて苦しい思いをしてるんだから、すこしぐらい多めに見てもらえると嬉しいんですが」 彼女は笑う。そして少しおもしろがったような顔で言った。 「それに、3時間くらいの授業なら、夜中にやるわ。みんなが正常に苦もなく簡単に寝てるあいだに、暗い暗い談話室で一人でさみしく。私にとっては、夜に眠るほうが羊皮紙1マイル分のレポートよりむずかしいから、授業の遅れを取り戻すなんて簡単」 喉の奥から小さな笑いが漏れる。そこまで言われれば、そのとおりにしてやろう。 「それでは……ついてきたまえ」 はすこし驚いたように素早くまばたきをすると軽くうなずいた。 ホグワーツは広い。使われていない部屋も沢山ある。だからそのうちの一部屋を彼女に提供し、すこしでも気を楽にしてしまえばいいと思ったのだ。 勝手に動く階段を2、3階分上ると、ほとんど人の立ち入らない区画に入る。 「この部屋ならば静かで良いだろう」 長いあいだ使われていなかったらしく、部屋の中はそこらじゅうにホコリが雪のように堆積していた。ホコリはの背中から舞い散る羽毛とまったく見わけがつかない。しかし見わける方法はある。 掃除の呪文で無くなるものがホコリ、そのまま残っているのが幻覚だ。 「ここで眠るといい」 寝心地のよさそうなベットが部屋の中心に出現した。魔法とは、なんと便利な物なのか。魔法使いは肉体的労働などほとんどしない。すべて魔法で解決してしまう。 もし労働するとすれば、ペンで文字を書く程度だ。それすらも自動速記という、まさに魔法の道具があるのだから、なんと楽なことか。マグルより寿命が長いのはそのおかげかもしれない。 しかし、体の老化はとてつもなく早いだろうな。まあ、杖さえ振れればいい。指も3本くらいまで退化してしまうのではか、それだけが心配だ。 そのようなくだらない事を、ベットの下から這い出してきた老人のような小人を見ながら連想した。その小人は顎が極端に細く、足は短く、目は濁ってほとんど視力が無いように思えた。 ああ、なんだ。それは未来のゲルマン人が使う舌人形ではないか。十数年前、まだ知的好奇心が旺盛だったころに読んだ、マグルの書いたマイナーなSF小説に出ていた。まったくもって、我輩の脳は腐っているようだ。 「薬は飲んでも飲まなくとも良い。好きにしろ」 ベットに付属するようにあらたに出現したサイドテーブルに透明の水薬が入ったガラス瓶を置く。 はその小瓶から目をそらし、薬を無視していた。 「3時間後に起こしにきてやろう。仮眠にはそれくらいの時間がちょうど良い」 はベットにすわり、なにか不安げな様子でマクラを整えていた。 「午後の授業は出なくてもかまわない、我輩から連絡しておこう。級友達が複雑な呪文を相手に四苦八苦している顔を思い浮かべ、君はゆっくり休んでいると良い。気分が変わればすこしは眠れるだろう」 彼女は細く空気が漏れるように笑った。 「それでは、また後で」 後ろ手でドアを閉め、部屋へ戻った。今日の午後は特に受け持っている授業はない。しかし、授業がないからといって、やるべき仕事までないというわけではない。教師というものは多忙なのだ。 羽根ペンを使うことに慣れていない1年生のレポートは、なんという文字が書いてあるのかを解読するところから始めなくてはならない。内容の採点はそれからだ。まるで古代文字を読んでいるような錯覚おちいり、うんざりする。彼らには、はやく象形文字ではなく現代の文字を使えるように進化してもらいたいものだ。 暗い地下の個人職務室では昼間でもランプかロウソクが必要だ。1時間ほど経っただろうか、消えないはずの魔法のロウソクの炎が揺れる。何かと思って目線を上げると、我輩の幻覚の常連である小人がロウソクの炎を吹き消そうとしていた。 ついに幻覚は現実世界へ物理的な干渉を始めている。つまり、我輩の視神経と脳がそれだけおかしくなったということだ。たぶん、我輩以外の人間は、炎の揺れなど見えないのだろう。または、風か何かで揺れている炎を、我輩のみが小人が吹き揺らしていると認識しているかだ。 できれば後者であって欲しい。もしも前者であるならば、複雑すぎる。 なにが現実で、なにが非現実な物なのか、なにを信じていいのか本当にわからなくなってしまう。 部屋のドアを叩く音を耳にし、自己の模索から急に現実に引き戻された。 さきほどへもう一瓶薬を渡したこと、彼女があいた部屋で眠っているだろうということを職員連絡専用フクロウを飛ばしたので、マダムポンフリーか、彼女の返事を預かってきたフクロウかもしれない。 しかしドアを開けると、そこにはがほとんど泣きそうな顔で立っていた。彼女は暗い廊下で、所在なさげにとても不安定そうに見えた。 「、何を……」 しているんだ、という間もなく、彼女は我輩の横をすり抜け部屋へ入り込み、古いスプリングの緩んだソファへ腰掛けた。 「眠れなかった」とは呟いた。 「薬は?」 返事のわかりきっている質問をしてみるが、答えはやはり予想したとおりのようで、彼女はポケットからガラスの小瓶を取り出す。そしてソファの前のローテーブルにそっと置いた。 「なぜ飲まないんだ、。それなりの理由があるんだろうな」 うんざりと彼女の向かいに座る。 「2度目だ。そして今回は君のほうから“眠る”と進言し、授業まで休んだ」 は黙ったまま、相変わらず我輩を見ていた。 「何か言ったらどうだ」 「薬を飲んでしまうと、自分が異常だと言う事を認めたみたいで嫌なんです。私はただ眠れないだけ。その障害は正常の範囲内で、薬なんて飲まなくても平気だと思いたい」 一息では言いきった。目は過度に潤んでいるが、その涙がこぼれることはなかった。 「眠れないことよりも、自分が異常だということに気づくほうが、怖いんです」 彼女は混乱しているようだ。人間が本能的に必要な休息を取れないということは、多大なプレッシャーになっているのだろう。ストレスによる不眠、不眠によって引き起こされるさらなるストレス。堂々巡りだ。 「落ち着け」 これだけ言うことが精一杯だった。人をなぐさめるなど、今までの人生では必要のなかったことだ。 「飲むといい」 空中から出現させたマグからは湯気と共に独特の濃い香りが立ち上る。 はためらいながらもカップを受け取り、一口すすった。 「無理に眠ろうと思わなくてもいい」 できるだけ静かに、穏やかに聞こえるような声を出した。すこしでも彼女が安心するように。 「目を閉じて横になっているだけでも体力は回復するものだ」 苦いコーヒーの匂いが部屋を満たしている。 「どうしても身体が限界に近づけば、勝手に眠れるだろう。眠れないのは、まだ体力が残っているからだ」 はぼんやりとした目で、話を聞いているのかいないのかも解らなかった。しかしそれでいい。わざわざ匂いの強いコーヒーを選んだ理由は、薬をまぜてもわからないからだ。 弱い睡眠誘引剤を混ぜた。彼女にわからないように。 「どうした、」 彼女はそのまま目を閉じた。 カリカリと羊皮紙をペンが引っ掻く音だけが聞こえる。普段は気にもとめないような小さな音が、静かな部屋ではよく響く。の方を振り返ると彼女は小さく首を横に振り、そのうち弱い寝息が聞こえてきた。 NEXT> 2004/10/21 トラ |