髪結いの痩せ亭主




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 今日もは我輩の部屋に、眠るためにやってきた。

 ホグワーツ城の教師である我輩のたいていの仕事とは、生徒の提出したレポートの採点だとか、次の授業のために実験の手順をまとめるとか、そういったたぐいの書類仕事である。だから我輩の静かな部屋の中ではペン先が羊皮紙をひっかく音だけが響いていた。
 しかしそれは最近までの話だ。が眠りにくるようになってからは、彼女の寝息の音がそれに交じるようになった。

 部屋に入るなり彼女はローブを脱ぎ、ソファへ座る。我輩の差し出す薬をなんの疑問ももたずに飲み下し、そのまま深い眠りに落ちる。目を閉じている彼女の眉間には薄くシワがよせられているが、呼吸はとても安定していて、一定のペースで肺と横隔膜が動いているように思える。
 の寝息は小動物が立てるような乾いた音を立てる。そのかすかな音を聞きながら我輩は仕事をする。
 その小さな音はなんだか我輩を落ち着かない気分にさせ、ペンのスピードを遅くさせた。

 一度、が完全に寝入る前に、ソファの上でもぞもぞと動く気配を感じた。
「羽ペンの音って響くんですね」
 彼女はあまり意識のはっきりしていない声で言った。
「睡眠誘引剤を飲んでいるにもかかわらず寝入るタイミングを失うと、気分が悪くなるゆえ、おとなしく目を閉じていろ」
 我輩はインク瓶にペン先を浸し、彼女のほうを振り返りもせずに答える。
「うるさかったら部屋へ戻れ。我輩は仕事を放棄するなど、立場的に不可能なものでな」
 そして彼女は何も答えなかった。答えを聞かずに眠ったのか、それとも答える前に眠ったのか。そのようなどちらでもいいことが最近きになってしまってしょうがない。


 まったく解読できない最低学年の暗号のようなアルファベットの羅列に嫌気がさす。我輩はイギリス人ではあるが、ホームズなどではないので“踊る人形”などは解読できない。我輩はボーイ・ジョージでもないので、幼稚な文字に芸術性を見出すことも出来ない。
 何枚もデスクの上に重なった羊皮紙(未採点のレポート、レポート、明日の授業に必要な実験の手順を記したもの、また未採点のレポートが多数)をばさばさと床へ落としてしまいたい気分になり、なんとかそれをこらえて(感情の行動化はいけない。感情の行動化はいけない、と唱えるいいらしい。セラピストが不安な人間達をさらに心配にさせ、印税と治療費を儲けるためだけに書いた本に載っていた)
 気分を変えるために、本でも読もうかと後ろを振り返る。本棚を見たははずが自動的にも視界に入ってしまった。

 眠っているは、各々カラフルな帽子を被ったドワーフ数匹(数えなくても解っている。7匹だ。おきまりの腐った数字だ)に囲まれている。
 非現実に囲まれている現実というものは本当にシュールだ。頭が痛い。“もう頭痛が痛い”などという底辺に近い言葉遊びなどする余裕も無くなった。
 数匹のドワーフは大変メルヘンチストらしく、今度はどこから拾ってきたのか……解っている、幻覚なのだからどこで拾ってきたかなど問題ではない……バラの花をの体の上に撒きだした。
 赤い刺のついたバラ。(たぶん品種名はクリスチャンディオール。いや、違うかもしれない。だがすこしくらい我輩の好みに合わせてくれてもいいだろう)まったく、どちらのストーリーにするのか、はっきりして欲しいものだ。まあ、……どちらの主人公も仮死状態なわけだから、あまり深く考えなくてもいいのかもしれない。
 プリンセスとはストーリーの上での単純な記号である。
 つまり、最期に王子と末永く幸せに落ち着ければ名前やアイデンティティーなど微塵も必要無いのだ。
 しかし「イバラ姫」も「白雪姫」も、どちらも眠ったままだというのに、主人公という位置付けはどういうことか。タイトルとは大抵の場合主人公の名前をつけるものではないのか。
 もうやめにしよう。……我輩は幻覚が見えるだけではなく、思考までおかしくなってしまったのか。

 頭を抱え、デスクの上の書類の山に意識をもどす。やるべきことが多すぎて、吐き気がこみあげてきた。何かに追いかけられる夢など、とうに見なくなった。それはつまり、我輩がその状況に慣れたということだ。






 

2004/11/7     トラ